2ペンスの希望

映画言論活動中です

運動と活動

何処かの国の映画評論家が、評論家の肩書きを返上して、映画運動家を自称し始めたらしい。三つの点で違和を覚えた。
第一。
そもそも、映画を評論することには、映画の現状を変革しようという「運動」的な視点とアクションが含まれるものだと思っていた。なのに、この「評論」家さんは、評論=言論=口舌の徒 以上のご理解をお持ちではなかったようだ。評論=運動の視点を欠いた評論なんて,単なるおしゃべりでしかなかろうに。
第二。
「運動」という言葉にも引っかかる。拙管理人は、映画「言論」活動中との看板を上げてブログを船出させた。運動と活動。英語で言えば、アクション・アクティビティ。似たようなものだが、ニュアンス・受ける印象はちょっと違う。拙は言葉の専門家でも国語の先生でもないので、ここから先は少しいい加減、怪しいことを書く。
活動⇒より具体的で、ミクロ的な行動。
「活動」は現実に行動として行われ、目に見てとれるか、感知することができるものだと理解している。「火山活動」「奉仕活動」「テロ活動」のように。
それに対して、
運動⇒広く一般に対して「活動」への理解を深めてもらうためのマクロ的な行動
活動に比べて、「運動」は抽象的で、総称的・概念的・計画的・意図的・目的的。
例えば「募金運動」「選挙運動」「交通安全運動」というふうに。
つまり、「ためにする働きかけ」「利害に関係するアクション」とも言える。
上から目線・大所高所からの啓蒙・啓発の臭いが付き纏う。
第三。
〇〇家と〇〇屋というのでは印象が違う。
〇〇家は尊称的だが、〇〇屋となると蔑称・賎称気分が漂う。〇〇家は高貴で、〇〇屋は卑賎。そんなイメージがある。
自分のことをどう呼ぼうと構わない。くだんの元・映画評論家さんも、志はもっと高く高邁なのだろう、キット。評論では商売にならなくなって、看板を書き換えただけなんていうことではないと信じる。
それでも、あまりに暢気で牧歌的に過ぎないかと思ってしまった。
脇が甘いし、危機感が無さ過ぎる。

ん?そういうオマエさんはどうなのかって?
シティボーイ(拙管理人のことだ!)としては〇〇家と名乗るのはこっぱずかしい。「活動家」と名乗るなんてさらにおこがましい限り。よって「映画言論活動中」とした次第。(「中」には、現役だよという思いと中毒の意味も少し混じる。)
しかしてその実態は、といえば‥‥‥、
いえ、ナニ、しがない「活動屋」で御座いますよ。