2ペンスの希望

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向こうからやって来るチャチで下らないもの

映画も非道いことになっているが、テレビも落ち目である。目も当てられない。そんなテレビについての橋本治大先生のテレビ論。【『その未来はどうなの?』集英社新書2012年8月刊】(定価720円+税で、こんなに確かな正論が手に入るのだから有り難い。豊かな国だ。心底そう思う。もっとも、逆に言えば、たったこの程度の正論も何がしかのお金を出してしか入手できない、その程度に弛緩した言論情況だということでもあるのだが‥これはまた別の話)
で、テレビ論である。
橋本センセ曰く「向こうからやってくるチャチで下らないもの」と一刀両断。
そこにカメラを向けたら映ってしまった。それを適当にまとめて放送したら番組になってしまった「それまで“娯楽”としてカウントされなかった“暇つぶし”や“いたずら”のようなものが“娯楽”として成り立ってしまう」というのがテレビテレビは「いい加減なもの」です。「いい加減になりうるもの」がテレビで、これはそれ以前にあった「ちゃんとしていなければ、お客様を迎えられえない」という文化のあり方を揺さぶってしまったのです。
キイワードは、向こうからやって来るもの
テレビ以前なら、娯楽であれなんであれ、「こちらから見に行く」が必要でしたが、テレビにそれはありません。家庭に置かれたテレビ受像機に向かって、勝手にやって来てしまうのです。外へ出掛ける時は「よそ行き」を着ます。家にいる時は「普段着」です。改まった格好をして外へ出て行って見るのなら、「たいしたもの」である方がいいのです。でも、ご大層な「たいしたもの」に家にやって来られても困ります。

結論もまた明快且つ痛快だ。
テレビは日本人をどう変えたのか?
やたらの数の批評的言辞を弄する人間を生み出して、しかし言論そのものを活性化することはなかった。「いい加減であってもいい」ということを習慣的にマスターさせたが、
「いい加減であってもいい」と「いい加減でいい」の間にある微妙な差は理解させなかった。
(橋本)はこういうことを「大きな変化だな」と思うのです。
間違えてもらっては困る。橋本センセは、テレビは下らない、チャチだから駄目だ、と言ってるんじゃない。「本来的に」そういうものなのだ、と言ってるだけである。「実のところそのチャチさが好きだ」とも言明している。
さて「テレビを必要としない人達」が出現して久しい今、さらに辺境の“映画”は奈辺にあるのだろうか?
ひそみにならえば「こちらから見に行く」「ちゃんとしたもの」「いい加減ではないもの」ということにもなろうが‥‥果たして。見回せば「普段着」も「よそ行き」もお構いなし、家の中も電車の中も同じカジュアルウエア一点張り。そんな環境の中に棲息する新しい映画を模索するしかない。
消費社会、自由競争、直接民主制、‥幾つかの言葉が明滅するが。