2ペンスの希望

映画言論活動中です

生きる指針

橋本新書【『その未来はどうなの?』集英社新書】二日目。ドラマ論。
先生の定義はこうだ。「どう生きて行くのかという指針のない世の中で、人が生きて行くための指針となったもの」その上で、二つのことが書かれている。
「万人向け」「国民的作家」「誰もが知っているような作家はもう出ない」「中央中心から文化の地方分権へ」「知らない人は知らないかもしれないが、知ってる人が知っているからそれでいい」
「自由」という考え方に慣れてしまった人間は、「うるせェな、関係ないじゃん」となって「人生の指針」という考え方そのものが拒絶されてしまう。

とはいえ、
「現代では生きる指針なんかは求められていないのか?」ということになったら、当然「求められている」。ただし人は、それをドラマとは違う形で求めています。マニュアルとか、実用書とか。
いつの間にかドラマというのはエンターテインメントに限定されるようなものになって、ドラマから人生の指針を得るなどというのはダサイことになってしまいました。「ドラマから生きる指針や教訓を得るのなんて効率が悪い」「足りない栄養素はサプリメントで」 ‥‥ドラマというのは、教訓を得るのには吸収率の悪いものです。だから、「役に立つところだけ求める」という方向へ、進む人は進んでしまうのです。
「ドラマはまだるっこしい。肝心なところだけ伝えろ」となって、あまり有名ではない役者が、まるでサイレント映画のようにあまりセリフを喋らず、ナレーションに従って手っ取り早く進む「再現ドラマ」が増えます。もう「人生のあらましを知っている」と思っているし、他人事として接するからです。
ドラマはあらすじだけで「分かった」と思えるようなものになりました。

ストーリーはあってもドラマはない。
説明はあっても描写はない。
暇つぶしは求めても、指針は求めない。

そういうドラマでいいのかなと思う橋本先生は、「めんどくさい他人とつきあって、分かる気もないまま重要なことが分かりそうになるというのがドラマだと考えている」と書く。
そういえば、数年前に亡くなった映画監督が云っていたことを思い出す。「最近のドラマは何かといえば難病を持ち出してくる。それしか能がないのか。階級や身分、家柄、果ては飢餓、貧困、戦争など対立・葛藤の軸が分かり易い時代が去ってドラマは痩せてしまった。」テーマは切実かもしれないが、老いや難病だけではドラマは作れない。
不可避であり、不可知だからだ。で、どうするのかが描かれなければ始まらない。
「手っ取り早く分かり易い」ものより「吸収率の悪い」ものを求める胃袋(悪食/ゲテモノ喰い?美食家?)もあるのだ。