2ペンスの希望

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オリジナル

ある画家の公開制作を見に行った。
少なからぬ観客の目の前でキャンバスに向かって絵筆を揮(ふる)う。
暫く眺めていてハタと気付いた。そうなのだ。
ホンモノの絵画の前には間違いなく画家が立っていたのだ。オリジナルを観に展覧会に押しかけるのは、本物を見たいが為でもあろうが、画家の立っていた場所に立ってみたいという欲望もありなのだと気付かされた。何を今更、と言われるかもしれない。が、齢六十を超えてのささやかな発見だった。これまで優れた版画に出会いながらも手に入れたいとは全く思ってこなかった。版画がプリントメディアであり、刷られた版画の前には作家の「現前」がない(ないが言いすぎなら希薄だ)からだったのだ。一枚しかない絵画には、作家の筆遣い、息遣いが生々しく刻印されている。美術用語ではマチエールとか絵肌とかいうことになるのだろうが、ここでいいたいところとはちょっと違う。細部の描写やマチエールなら、画集や印刷写真のクローズアップでもあり程度補(おぎな)えそうだ。けれども、逆立ちしてもオリジナルに届きそうにないのは、その絵の前に絵描きが立っていたというリアルだ。この感じ、描き手のたたずまい(立ち位置)とか実在感といえば多少なりともニュアンスが伝わるだろうか。
或いは、投入された熱量の総和=丸ごととでも云えばどうか。
翻って、映画。
映画は生まれながらの「複製芸術」 オリジナルはない、といわれる。はたしてそうか。スクリーンに映し出された画面の手前には、間違いなく監督はじめスタッフ諸氏が働き、腕を揮っている。絵画と同様に投入された熱量の総和、それが映画だろう。映画館で出会い、レンタルショップから借りてきて観る映画は、すべて映画(こう書くとご不満の向きもあろうかと思うが今日は無視)。だとするなら、オリジナルはないのではない。 すべてがオリジナル=オリジナルは無数にあるのだ。そう考えた方が良さそうだ。生を無数に味わうことが出来るなんて!
作り手たちの立つ位置に立って、彼らの生々しい息遣い、細やかな筆遣いを味わい尽くしてみる至福が、無数に用意されていることに感謝したくもなってくる。
ただし、オリジナル≠ホンモノ。
従って、天地無用、取り扱い要注意なのもこれまた間違いない。