2ペンスの希望

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新たなる設問と謎の産出

最近知った画家の言葉。
山梨県小淵沢町の画家清水誠一さんが2004年Last Painting2号に書いた「ラスト・モダンとポストモダン(絵画の切羽9)」の一節。
好もうと、嫌悪しようと関係なく、ポスト・モダンの時代が隆盛してきたことは事実である。片田舎に住んでいる私の処へも、村上隆の絵が外国のオークションで6500万で落札したとか、奈良美智のドローイングが一点180万円で東京の画廊で全て完売したなどという噂が流布してくることもその証しである。作品の内容はともあれ輸入文化一辺倒の日本の現代美術が海外に逆輸出されることは、快挙であり喜ばしいことだと思う。明治以来の海外の美術あるいは美術運動を模倣し、それを土俗化あるいは工芸化してきた無意味な学習の美術の時代に何らかの終止符を打ったことにおいては意味があると思う。しかし、村上隆の絵画やフィギュアがポスト・モダンの時代の瞬時のストレートの快楽であるにしても、長い人類史的意味での新たなる設問と謎を産出できたとは私には思えないのである。 【太字強調は引用者】
確かに、彼のいうスーパー・フラットは今の軽薄文化の一つの側面を捉えているが故に現代的ではあるが、その軽薄文化の世界的拡大を助長している意味において、人間よ批判など忘れて馬鹿に成れ馬鹿に成れという、アントニオ・ネグリ マイケル・ハートの言う帝国的機械の見えない権力を背後に感じてしまうのは私だけだろうか。

持って回った言い回しがいささか気になるが、云いたいことは伝わってくる。
一時しのぎの快楽ではアカン、人類史的意味での新たなる設問と謎の産出を目指せ、ということだろう。
彼が描いた絵画を幾つか挙げる。




2010年12月に65歳で自殺した。