2ペンスの希望

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The よりも a

映画監督にThe という定冠詞は似合わない。
これぞ映画これこそ映画というただひとつの峰・サミットを競い合うのは愚の骨頂・大間違いである。ヒエラルキー・上下争いとは無縁に、天空に無数の星座が煌き瞬くように、綺羅、星のごとき存在、それが映画監督である。較べるのではない。それぞれがそれぞれの輝きで発揮する個性(恒星)なのだ。
そんなの当たり前、文学だって美術だってそうじゃん。すぐにもそんな声が上がるだろう。しかし、映画は文学や美術以上に《不純度》が高い表現体なのだ、そう思う。
《映画の不純度》
とは何か。以下 二つの観点から説明・証明してみたい。

その一、集団表現であること
昨今、ひとりでつくる映像作家も増えているが、映画はあらゆる表現行為の中でも集団で表現されることで際立つもののひとつだ。集団製作・チームプレイ。
個人の思い・設計が貫徹されるより、複数の人々の思いと技が掛け算になったり、割り算になって反映する。それが映画の醍醐味であり豊饒(豊穣)でもあろう。
その意味では、音楽に近い。スコアがあり、演者がいる。大編成フルオーケストラもあれば、少人数バンド編成も‥。そこでは監督が偉いのでもプロデューサーが絶対的権力を持つのでもない。関わるすべての人々の技量の総和、全エネルギー量が投入される。制約や妥協もあれば、思わぬ相乗効果、飛躍も生まれる。個人・ひとりの思いの純化・結晶化ではなく、複数・集団の雑多な思いの寄せ集め。
それをポジティブな意味も込めて《不純度》と呼んでみる。

その二、予期せざること・意図せざることが混じる(起こり加わる)こと
映画には、思わず知らず映ってしまうものがある カメラを向けること、フレームを切る取ることで、作為しないものまで写ってしまう
絵画にしろ、文学にしろ、描かないもの・書かないものは絶対に入り込まないが、
映画は夾雑物(きょうざつぶつ)に溢れている。すなわち《不純度が高い》。良くも悪くもそれが特長だ。
それを一方的なマイナス・排除すべきものとして捉えるのではなく写り込むものを取り込む姿勢もまたアリなのだ。ロケ現場には、風とか空気とか 気とか、作り手たちの制御不能なものが流れている。こうした現実・現場・ナマを追い風として映画作りはすすむ。智恵を絞り、最大限の工夫を施したその上で、現実・現場・ナマを味方につけながら遠くまで行くこと、これが映画である。

この二つの「不純度」によってこそ、映画はふくよかにもゆたかにもなる。
余剰・過剰・余分・余計・、はみだし、それが強みなのだ。
二つの不純から生まれる不定性」こそが映画なのだ。
映画監督にThe という定冠詞は似合わない。
映画監督には不定冠詞aがふさわしい。
すべての映画監督は、a監督なのである。

「ある」「ひとりの」a監督。 
断じて「われこそ」「極めつけ」のThe監督なぞではない。そう心すべし