2ペンスの希望

映画言論活動中です

今何が‥風呂敷

今日もまた、嫌ごとを書く。
不平不満・お小言の類いは口にしたくはないのだが、自戒も込めて書いておかないと忘れそうなので、しばしお付き合いを願う。
導入部は何とか見せるが、途中から行方不明になって、ラストは失速して空中分解、
あれあれ、どうしてここで終わるの?結局何の映画だったの?と、エンドロールとともに疑問符が三つも四つも浮かんでくる。そんな映画を立て続けに何本か見た。
この混迷の時代、分かりやすく一義的な解決策では現実は描けない、という思いも分からぬでもない。けど、だからといって、エンディングの「解釈」「理解」は皆さんご随意に、というのでは、あまりに無責任にすぎる。仮に「多義性」が作り手の「意図」であったとしても、その「多義性」が、何らかの「表現」に落とし込まれ描かれていなければ、何も伝わらない。観客は置いてけぼり、「評価」のしようもない。こんなのは問題外の外、却下するしかない。なのに得てして、そういう映画が、野心的な問題作、誠実な良心作と持てはやされる。
どこまでも風呂敷を広げるのはいいが、自分で広げた風呂敷は自分で畳まなければならない。広げっぱなしでほったらかしでは子どもの仕業に過ぎない。
辻褄・平仄が合わない映画は見苦しい。
じゃあ、どうすればいいのか。拙の考えはまたまた明日。(この項さらにつづく)