2ペンスの希望

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今何が‥肩すかし

気を抜いたり、手を抜いた映画が多すぎる。どれがというのではない。どれもだ。
手だれといわれるベテラン然り。新進気鋭といわれる若手然り。
映画が相対的に簡単に作れるようになって以降、脇が甘い映画が増えた。
「これは何の映画なんですか」と訊きたくなるようなのが多い。若くして勘違いしている人の映画は、何がなんだかよく分からない(分かる人には分かるのだろうが、そんな仲間うちにしか通じない“閉じた”映画は御免だ)し、映画を知っている(であろう)人の映画も、故意にか、肝腎なドラマには踏み込まないで、見かけの技巧・映画的な表現手法ばかりに腐心してお茶を濁している。
細かなサービス・くすぐりはそれなりにある。なのに、踏み込んだドラマはない。致命的な不足感が残る。肩すかし。背骨のないふにゃふにゃ軟体映画。消化不良の胸焼け映画。関節はずした脱臼映画。すっきりしない残尿映画。そんなのばっかだ。
評論家も含め皆分かっている筈なのに、だれも本気の批判はしない。日本映画村互助組合、お互いをかばいあうだけ。観客も同じこと。映画を知っている人士もまだ多く残っておられるだろうに。誰も声を上げない。黙って去っていくだけだ。昨今ちゃぶ台をひっくり返す人にはトントお目にかからない。(ひっくり返そうにも、ちゃぶ台そのものが見当たらない、という半畳はこの際無視)
今何が一番いけないといって、映画を知る人がまだまだいる筈なのに、映画の力を次の世代に伝えようとしないことだと思う。映画の液状化現象は、作り手・見せ手だけでなく観客の間にも広がっている。これを末期的症状という。じゃあ、どうすればいいのか。
拙の考えはまた明日。(この項つづく)