2ペンスの希望

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キャッチャー?バッター?

昨今の民主主義のあり方を憂えた本の中にこんな一節があった。
映画の観客が「鑑賞者」ではなく、「消費者」と化してきているのです。のみならず、作り手も何でも懇切丁寧に説明し、悲しい場面に悲しい音楽を流し、楽しい場面には明るい音楽を流す。つまり作り手が離乳食のように映像を噛み砕き、スプーンでその「離乳食映像」を観客の口に運んであげ、観客は噛むことなく飲み込むような映画が主流になっているのです。しかし、この状況は映画文化にとって悲劇的です。
 作り手と鑑賞者は対等な関係であり、ある種の「勝負」をする場が映画館だと僕は考えています。作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーとして受け取るのではなく、バッターとして打ち返してほしい。だからこそ、僕のドキュメンタリー映画(観察映画)では、ナレーションや説明テロップを省き、BGMも使いません。観る人に、映画の中で起きていることを能動的に自分の目と耳で観察し、感じ、解釈して欲しいのです。
」【岩波ブックレットNo.885「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」2013年11月】書いたのは「観察映画」というキャッチフレーズで売り出し中の想田和弘さん。おっしゃっていること、分からぬでもない。(とくに前段はおっしゃる通り)
ただ映画を見る人は一様ではない。管理人はそう思ってきた。時として、受け取るキャッチャーであり、同時に打ちかえすバッターでもある、それをどちらかに決め付けようとするのは、作り手の傲慢である。傲慢がいいすぎなら、願望・高望みといいかえてもよい。
映画を見る人は、もっと自由勝手だ。映画館はバッティングセンターではない。ましてや「勝負」の場ではない。(繰り返すが、作り手にとって勝負の場である、ありたいという思いはとてもよく分かる。)ある人にとっては、胎内であり、隠れ家であり、避難所(シェルター)でもあろう。昨今は教室か集会場なんてのもある。寝ようと無視しようと構わない。

もう何年も前のことだが、敬愛するベテラン脚本家が云っていた言葉が忘れられない。
最近の映画屋さんは、べらべらとよく喋る。口が立つのが悪いとはいわんが、本業がおろそかになることを恐れる。なまじ賢いと腕を磨くことを忘れがちになる。
ピッチャーはピッチャーとして精進するほうがいい。キャッチャーの手を痺れさせる剛速球を投げるとか、バッターの目を覚まさせる切れの良い魔球を投げることだ。へなちょこ球や、死球、危険球、暴投、敬遠気味の球ばかりではピッチャーはつとまらない。つまらない。打ち返す気にもならない。