2ペンスの希望

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ありのまま1

ありのままはありなのだろうか、
故佐藤真がフレデリックワイズマンについて語った講演原稿を読み直してそんなことを考えた。「オブザベーションシネマにおけるワイズマンの特異性について」【2003年11月3日立命館大学先端総合学術研究科開設記念シンポジウム『ドキュメンタリーの修辞学』みずず書房2006年11月刊】
引き続き、想田和弘の『演劇VS.映画』【岩波書店2012年10月刊】を読んだ。
ワイズマン→佐藤真→想田和弘を繋ぐキイワードは、オブザベーション=「観察」映画。想田の定義をそのまま引くなら、「目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作る」【上掲書9頁】ということになる。
作り手の主義主張や素材の力に頼って何がしかのメッセージを届ける映画ではなく、
素の日常・スッピン・飾らない本当の姿をそのままに描写・記述し提示する映画ということにもなろうか。言わんとするところはわかる。作り手の主観を出来うる限り希釈し透明化して、観客の自由な受け取り・咀嚼にゆだねたいという願望の発露。
そのために、ワイズマンは“四無主義(ナレーション無し、インタビュー無し、字幕無し、音楽無し)”を掲げる。佐藤は、「個は全体に奉仕しない」個々のシーンは(作り手の)意図や観点から独立し、映画を読み解くのは観客ひとりひとりと語る。 想田は、具体的実践のための十か条を記す。
しかし、カメラの透明化は可能なのか、ありのままは本当に撮れるのか。そんな疑問がすぐ浮かぶ。 「シュレディンガーの猫」や「観察者効果」を持ち出すまでもない。(続く)