2ペンスの希望

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ありのまま2

撮影の了解をとりつけカメラを回す限り、ありのままはありえない。
管理人はそう考えてきた。
記録映画の被写体は、カメラの存在を意識しない、カメラはなきものと考える、という
“お約束”の上で振舞っている。それを避け・越え得るのは、隠し撮り・盗撮、無人カメラ・監視カメラでしかない。そこには無防備なありのままが写るかもしれない。しかしそれがどうしたというのだろう。ありのままが供されることがそれほど意味あることなのか。
観察映画と称さずとも、作り手は、被写体の意識の裂け目・綻び・我を忘れる瞬間を求めてカメラを向ける狙撃手だ。そして、カメラを回していると、「飾らない素顔が撮れた」「肉声が聞けた」と思える一瞬・手応えが、確かにある。(さらに経験的に言うなら、それは偶然に居合わせたとか、たまたま、とか、出会い頭に多いのだが‥)
それは、ありのままと言う言葉とは少し違う。むしろ「個別が世界に繋がった」というか、「被写体が外の世界に広がった」「普遍を見た」「世界に通底したときに感じるゾクゾク感」、「風穴が開いた」、「風通しが良くなった」といった言葉に近い。
作り手は、その感触を手がかりに撮られた映像を切り刻む。その中で、文脈が練られ、意図された(構成された)映画的な時間を新たに生みだしていく。
撮影の現場で感触された「ありのまま」は、編集・録音・仕上げを通じて、新たに作り出された「ありのまま」なのだ。際立って人工的に加工された自然。
良く出来た映画においては、ありのままの豊饒・多義性はより増幅される。とすれば、生の「ありのまま」という神話・信仰は、そろそろ卒業したほうが良い。
何度も書いてきたが、映画は練り物、ナマモノではない。