2ペンスの希望

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恐ろしい

昨日或るところで、或る映画を観た。
或る地域をモチーフにした人物インタビューシリーズの第三弾。
今回は、阪神淡路大震災を経験した親子(父66歳母60歳長男27歳)が対話する二面マルチスクリーン方式。56分。
リビングらしきテーブルを挟んで父母の二人と長男が対座、まず父親が震災体験を語りはじめる。やがてそれぞれの半生を語りだす姿を二台の固定小型カメラで延々写し出す。ルーズな上半身サイズワンカット画面が左右二つのスクリーンに同時に映し出される。語る人物と同時に聞く人の表情、その反応や無反応が捉えられる。
(外部からのインタビューは無し。親子の対話だけで進行する。)

映画の「おそろしさ」をまざまざと突きつけられて、面白かった。面白かったというのはちょっと違うかも。やんわりいえば刺激的、正確に言えば、きついなぁ、こわいなぁ、か。いずれにしろ興奮させられた。(これ以上は語れない。 映画は観てもらうしかない‥)
56分ほとんどノー編集ワンカットで一気に見せるのだが、途中から震災体験はどこかに消えて、三人三様のそれぞれの人生・思想・人となりが丸ごと浮かび上がってくる。隠しようもなく人品骨柄が見えてくる。 (ノー編集だが、作り手の思案・構成展開は明確、巧みだ。エンディングの幕の引き方にも作り手の強靭な意志=試み=企みを感じた。)上映後のトークで作者は「こんなことになるとは予想しなかった。(映画を撮るということは)結構残酷なことだと思う。この残酷さをそがないためには、一部始終をちゃんと見せないといけないと思った」といった主旨の発言をしていた。(註記:コメント、括弧内の言葉は、管理人が勝手に書き表したもの。)
つまり、映画の怖さ、きつさについて、作者は十二分に自覚的なのだ。
カメラという異物の闖入が場を緊張させ、ときに励起し弛緩させるものだということを熟知している。撮られた映像には人生が丸ごと露出する。 その人の歴史と人生は真っ裸にされてしまう。
どれだけ加害的であり続けられるか、
どれだけ意地悪に冷徹でいられるか、
助け舟を出さずに辛抱できるか、
胆力勝負
だ。見せる側の覚悟と責任はお見事だった。
ナレーション無し、字幕テロップ無し、インタビュー無し、音楽無し、四無主義がご自慢らしいどこやらの観察映画監督にもご覧戴きたいものだ、そう思った。
もっとも「この映画できちんとお金が取れるかどうか」という問題は残る。
ここに、映画のもうひとつの恐ろしさ、怖さ、きつさがあるのだが、これはまた別の話、別の機会に。