2ペンスの希望

映画言論活動中です

不可視の可視化

昨日とはさかしまなことを書く。
不可視の可視化・見えないものを見ようとする意志こそが映画の推力となる。
そんな映画だけが新しい映画の名に値する、強くそう思う。
どれだけシナリオがよく書けていても、作る前から仕上がりのすべてが見えている・見通されているような映画は映画じゃない。映画はシナリオのなぞりではない。そんなことは作り手なら誰でも知っている、自明のことだ。(ま、勘違いしてるのも結構いるが‥)
作り手たちにも見えていない闇の部分にまで降りて行こうとする力技、観客を巻き込み引き連れながら作り手たちが目指すのは、これまで誰も見たことの無い世界の深み(高み?)だ。そこに見えてくるのは、もしかしたら見たくもないもの、目を背けたくなるような光景かもしれない。見苦しいもの・みにくいものは見ないほうが良いという道徳、見てはいけないという倫理もあろう。 しかし、果てしない眼の欲望こそが、人を動かし歴史を作ってきた。
斥力・反撥力に抗しながら、不可視の部分に触れていく意志・進駐する体力(耐力)このあたりが肝心要の勝負どころに相違ない。「世界の果てまで連れてって!」 観客はいつだってそう期待している。
「すごく良く出来た幸せな映画なんだけど、どこか閉じていてよそよそしい」「外部や異質が排除された人工性・どうしようもないつくりもの感が漂う」「寸止めばかりでバトルゼロ」語り口がどんなに達者でもそんな映画は嫌な感じだ。映画じゃない。そう断言する。