2ペンスの希望

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作家≦読者 或いは 作家=読者

先日、大学映画部の先輩からこんなことを教えて貰った。
あらゆる小説は模倣である」(清水良典の著書 幻冬舎新書
読者は密漁者である」(ミシェル・ド・セルトーの言葉)不勉強ゆえともに知らなかった。

清水良典さんは、15年余り、愛知県の大学で創作ゼミの指導教官をしてきた文芸評論家とのことだ。【産経新聞2012年9月9日掲載記事「著者に聞きたい」から】記事には
オリジナリティーというのは結局、苦労の末に身につけたアレンジ技術のことなんだと思う。だからこそ作家志望の若い人には、マンガだけではなくて内田百輭とか夢野久作といった古いものにも触手を伸ばして模倣のデータベースをどんどん広げてほしいんです」とあった。
映画もまたしかり。何を隠そう拙も「模倣上等・剽窃礼賛」派だ。もっとも「オリジナリティー・アレンジ技術」がない単なる「コピペ」はまっぴら御免蒙りたいが‥。
昔はそれほどではなかったが、
今は作家≦読者(観客)だと思ってる。馬齢を重ねたお陰で、厚かましく鈍くなっているせいでもあろうが‥。
理由はこうだ。
ものを作ることは好き勝手でやっていること、それ自体立派なことでも大したことでもない。むしろある意味余計なこと、はた迷惑なこと。
それにお金や時間を費やして付き合ってくれる読者(観客)の方が偉いのではなかろうか。(極論暴論の類いだとは承知している。為念)
それでも、どうしても「作り手」の方が偉くて大変で、「見る人」は受けとめるだけ・押しいただくだけ と考えがちだ。作家を上に置き、拝跪する。それは間違い。
上下関係ではなく前後関係、あとさきの違い程度だと心得おくほうがよい。そう考える。何故か。
そうでなければ、批評が生まれないからだ。批評が生まれなければ、創作は痩せる。
独り善がりや生煮えが蔓延(はびこ)る。
今の映画界の不振不幸のひとつは「力のある批評」がないことに因る。
解説や説明では、作り手は鍛えられない。作り手を叱咤激励する批評の不在が、映画の液状化を加速させている,これが拙の見立てだ。
作家≦読者(観客)従って、
誤読上等 妄想礼賛 
創作がなければ、読者(観客)も生まれないが、作家や作り手は、最初から作家や作り手であるわけではない。読者(観客)⇒作家というベクトル(成り立ち・生い立ち)は逆ではなかろう。
読者(観客)⇒作家⇒読者(観客)⇒作家⇒‥‥
持ちつ持たれつの無限ループ。よって譲歩して
作家=読者(観客)あたりで手を打ちたいがどうだろう。