2ペンスの希望

映画言論活動中です

船そのものを運ぶ

極論を書く。
映画は「事実」や「研究成果」や「メッセージ」のような「積荷」を運ぶものではない。運ぶのは「船そのもの」なのだ。だからこそ、船としての「芸」「パフォーマンス」がなければならない。そんなことを考えた。
ヒントは、昨日から読み始めた小田嶋隆さんの『コラム道』【ミシマ社2012年6月3日刊】。「はじめに」にこうあった。
コラムが運んでいるのは、「事実」や「研究成果」や「メッセージ」のような「積荷(つみに)」ではない。わたくしどもは、船そのものを運んでいる。つまりところ、コラムニストとは、積荷を運ぶために海を渡るのではなく、航海それ自体のために帆を上げる人間たちを指す言葉なのだ。
ということはつまり、空っぽの船であっても、そのフォルムが美しく、あるいは航跡が鮮烈ならば、でなくとも、最低限沈みっぷりが見事であるのなら、それはコラムとして成功しているのである。

コラム「映画」に置き換えて読んでみて欲しい。
なんだ、まんまパクリじゃないか、と言われるかもしれない。その通り、パクリだ。
で、それが何か‥。いいものはいいね。正しいものは正しいのだ。
昨日の続きで言えば、「ドラマ」という積荷なんぞなくったって「映画という船」さえかっこよければ、とりあえずは及第点ということだ。
それでも間違ってもらっちゃ困る。動く画があって、音が鳴っていれば、映画になると考えるどこかの頓馬は問題外の外、即刻退場! そんなものは、映画でもなんでもない。ただの落書きかそれ以下だ。「腕」や「芸」(小田嶋さんは「けれん」も挙げていたが‥)がなければ、眼も当てられない。
まんま飲み込むのに努力がいるようなグダグダの生煮えは駄目、いただけない。
サクサク見られて、ザワザワ胸騒ぎがするようなのをもっと見たい。もっと作りたい。