2ペンスの希望

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飽食の怠惰

デジタルの時代である。
フィルムからビデオテープ、メモリーチップに変わりながら、それに則した表現論・文体論、技法・手法は未だ無い。あるのかもしれない。不勉強で知らないだけかもしれない。けど今日は敢えて無いと言い切って進める。
便利だから、コストダウンにつながるから、と現場でなし崩しに導入が進んだだけ。  その意味・手法の変化が繰り込まれた新しい表現理論が登場し広く普及しているとはとてもいえない。もとより当管理人にもその用意・覚悟があるわけではない。
キイになりそうなポイントを幾つか挙げられるだけだ。
①カメラの長廻しと手持ちが当たり前になった。
②自然光照明が主流になった。
③同時録音が普通になった。
④後処理加工が容易になった。
⑤色んな手法のハイブリッド・相互混入が進んだ。

ご覧の通り、メモ書き以上のものではない。(フィルム時代からの経験を踏まえて、それぞれ具体的な事実変化を詳しく書くことも出来るが退屈なだけだろうから、パス)
ひとつだけ書く。
①カメラの長廻しと手持ち
ワンシーンワンカットは昔からあった。けどフィルム・マガジンの限界で1000フィート巻きなら11分あまり、400フィート巻きで約4分半しか回せなかった。フィルム代も高価、無駄遣いは禁物だった。それが今はメモリーチップで1時間でも2時間でもカット無しに廻し続けられる。価格も生フィルム+現像代で1分あたり数万円だったのが今や現像代なしの数百円。これは或るスタッフから聴いたヘリコプター撮影時の実話。フライト前からカメラのスイッチは入れっぱなし、地上に戻ってもメモリー容量はまだたっぷり残っていたそうだ。キャメラマンはオペレーターではなかろう。フレームを覗き、ここぞというタイミングでカメラを廻し一秒一齣もおろそかにしなかったフィルム時代からすれば考えられない話だ。
それにとにかくカメラ自体が重たかった。管理人が仕事を始めた頃のミッチェルというムービーカメラは、撮影助手数人で抱きかかえないと動かせない重さ、手持ちなんてもってのほかだった。
映画の作りも変わった。
大きな物語が語られにくくなって、短いエピソードの羅列、ショートコントの数珠繋ぎ、みたいな映画が増えた。その一方で、全体は冗漫になった。起承転結を踏まえないエッセーみたいな映画も多い。それが悪いとは一概には言えないが、ダラダラ弛緩した映像の羅列・垂れ流しに付き合わされる観客こそ被害者、いい迷惑だろう。
「とりあえず」撮っておこう、「とりあえず」回してみる。駄目だったら後処理で何とかする。そこそこだがデジタル化でそれも可能になった。そんな便利の功罪。軽便になったことの怖さを思い知れ。
新しい文法・文体が生まれてきたのではない。
古い文法・文体が崩れているだけなのだ。

以前にも書いたが、「空腹は工夫を生むが、飽食は怠惰を呼ぶ」。
作らないでも作れる・作れてしまうことの恐ろしさにもっともっと気付いた方がいい。