2ペンスの希望

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小型軽量化 なしくずしの死

同年配の映画人から最近の撮影現場の話を聞いた。
カメラはCANONデジタル一眼レフカメラEOS-C300。とみに増えてきたスチールカメラを使っての動画撮影だ。ほとんどがコスト削減からの要請だろうが、豊富なスチールカメラのレンズ群が使えるというメリットもある。リハーサルでは、カメラは手持ちだったそうだ。小さくて軽く軽便なので手持ちも容易、フットワークもいいな、そう思って眺めていたら、なんと本番ではやにわにレールを敷いて移動車を準備し始めたらしい。彼は驚いた。(映画の移動撮影では、カメラの動きがスムースになるようレールと移動車が使われるのが通例だった。)折角カメラが、小さく軽くなったのに、撮影スタイルは旧態依然のまま。どっしりと重くて容易に持ち運び出来なかった時代のやり方を踏襲しているようだ。その様がどこやらチグハグでおかしかった、と彼は話してくれた。(もっとも、演出意図として、動きの安定したレール移動車を使うという選択はありだ。ただ、その場合にはリハーサルからそうしておかなければ、リハーサルの意味がなかろう)
機材は進化しているのに、作り方は古くさいまま、昔の手法・昔の文体をなぞっているだけなのだ。何の為の小型軽量カメラか。それでは、お粗末様、ご苦労様、不自由なことだろう。「機材・技術の進化に見合った新しい文体と文法」を誰も試みようとしないのが不思議でならなかった、と彼は強調した。おっしゃり通り、
機材は柔らかくなったのに、頭は固く硬直したまま。昨今、その傾向が激しい。
「新しい文法・文体が生まれてきたのではない。古い文法・文体が崩れているだけだ」
数日前に書いた言葉が裏付けられたような話だった。
なしくずしの死
セリーヌの小説の一節を思い出した。「又淋しくなった。こういったことはみんな実にのろくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがておれも年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。」【訳:高坂和彦】
映画の「緩慢な死」が始まっているのでないことを祈りたい。