2ペンスの希望

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「枠」

美は文体に宿る。そう思っている。文体、映画を映画たらしめている映画の文体として、とりあえず、「枠」「像」「編」「律」四つのキイワードを挙げてみる。 
まず第一は「枠」について。
「枠」とは、フレーム・構図世界をどう切り取って見せるか、だ。
それが映画の始まりであり、ある意味すべてだ。枠組み・窓枠・縁取り。ポジション、アングル、サイズ、レンズの選択。何を選び、何を捨てるのか。
覗き込み型・エジソンのキネトスコープ時代はさておき、リュミエール兄弟のシネマトグラフ以降、映画はスクリーン投影型で発展・進化してきた。暗闇で見上げるスクリーンは、大きい。(大きいものだったというべきか。最近のミニシアターって何がミニかといえば、スクリーンの大きさだったりする。)
フィルムの時代のキャメラマンは、四隅や奥行きを意識しながら、構図を作ってきた。
テレビとビデオの時代になってそれが変わってきた。小振りになっただけでなく、枠より中身・対象重視。どう画を作るかではなく、何が映っているかが優先される。小さなモニター画面では、意識は中央に集中する。枠は気にされることなく溶けている。そしてついに忘れられる。対面する距離も、どんどん近視眼的になってきた。手のひらサイズ。画像は手が届くところにある。最早見上げるものではなく、むしろ幾分見降ろし気味だ。
レンズも広角が全盛。広角系は、被写界深度が深いため、ピントも合いやすく、手持ちのブレも目立たない。望遠レンズより扱いやすい。現場が優先される記録映画などでは重宝される。対象との距離も近く、手持ちでガンガン動き回る接近戦にも適している。
かくて、真ん中にあるものだけに意識は集中する。小さく奥にあるもの、隅っこに映り込んだものは忘れられ、置き去りにされる。映画が個人で所有され、小さなディスプレー画面で見られるようになって、枠の感覚・感性がどんどん鈍くなっているような気がしてならない。構図を決め、枠をつくることで、画の隅々までゆるがせにせず、力を漲らせていくという意識と意欲が減衰しているのではないか。枠の再発見、枠の復権を求めたい。