2ペンスの希望

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視覚と聴覚(菊地さん再録)

ここ暫く、菊地成孔さんの映画本『ユングサウンドトラック』を賞玩している。
映画評論家として高名なH先生との対談【初出は「エスクァイア日本版」2008年2月号】で、音楽家らしい発言をしている。
キャメラとマイクは今や同じ機材として完全に一体化されていますが、例えば小さなマイクを鞄に入れて電車に乗り、一日散歩すると、ちょっとしたミュージックコンクレート作品になります。これを劇音楽にちょっと合わせる。ということをする人も多い。しかし、そういう人々は、ドキュメンタリーのキャメラを回す人々よりも「世界をありのままに切り取った」とは思っていないと思います。
録音機材はコンプレッサーや指向性、帯域という属性が大きすぎて「現実のある側面を歪めて切り取ることしか出来ない」という諦めが予め強くありますし、音楽家は「楽譜に書いた段階で一度、録音された段階で二度、現実感が移動している」ということを、否応もなく自覚しています。キャメラのメカニズムはほとんど眼球を範とし、映像は目以外からは取り込めませんが、マイクのメカニズムは耳を範としておらず、音は耳以外、全身で取り込めます。

激しく同感する。「映像も目だけでなく全身で取り込むもの」だと心得た方が賢明だ。キャメラを向ければ世界は映るという素朴信仰」とは、早めにおさらばした方が良い。
■付け足し
さきの対談の末尾、菊地さんはこうも発言している。
ドキュメンタリー映画における音と映像の問題というのは、テレビというメディアの登場によって、いまだにいびつに造形されたままだと思います。テレビというのは、自己正当化が過ぎ、ニュースからバラエティまで、いわば総てのプログラムがフェイクドキュメンタリーであって、フィクションとノンフィクションの区別が本来出来なくなった。虚実の皮膜がどうのと言うのは易し、ニュース映像を見る視線が、やがて後に「あれは捏造でした」となり得る。という懐疑主義的なコンセンサスを定着させた現在、フィクッションとドキュメンタリーのイタチごっこがどうなるのか興味がありますが、いずれにせよ映画においては、音が鍵を握ると思います」(強調は引用者)