2ペンスの希望

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「ビジネス抜き」は無し

いまや映画は分が悪い産業になっている。全くもって儲からない。あざとい商売上手を除けば、大半の映画は赤字だといっていいだろう。制作費を回収して監督や主要スタッフに満足なギャランティーが支払われている自主制作映画がどれくらいあるだろうか?他人事ながら心配になってくる。
それでも映画はどんどん作られる。
割に合わないことは百も承知で、何とかかんとか映画は作り続けられている。畢竟(ひっきょう:つまるところ)応援する人は、「ビジネス抜き」で、ということになる。けなげなことである。それ自体は美しく、悪い事ではない。しかし、もうそろそろ「ビジネス抜き」は無しにした方が良いのではないか、そう思っている。
企画者や監督さんは、真っ当な企画料や演出人件費を取るべきだろう。
そんなことは分かってる、そうしたいのは山々だけど、ない袖は振れない。そんな反論がすぐさま返って来そうだが、事業としての設計が不十分なまま映画制作が進められるのは「不幸」ではなかろうか。
確かにモノ作りは、楽しい。どんなモノでも‥。とりわけ映画作りは、非日常・お祭りみたいで愉快だ。だから損得抜きで取り組む。楽しめればそれで充分‥、楽しかったから多少の赤字は無問題(モウマンタイ)ということになる。娯楽としての映画だけではない。「これは重大な(社会的に意義のある?)テーマ・題材だから作ることには意義がある。正義感から生まれた映画に客が来ない・赤字に終わるのは、俺達作り手のせいじゃない!世の中、間違っている!」そんな記録映画製作者の声も聞こえてくる。「全くもって日本の観客は遅れている、駄目だなぁ」なんて仲間内で嘆きあってオシマイ、そんな例もありそうだ。
しかし、本当にそうかい。最初から釦の掛け違い、そもそも「ビジネス抜き」それが諸悪の根源・間違いの元ではないのか、
「ビジネス抜き」が今の映画を弱くしている、事業設計なき映画制作は慎んだ方が良い。「ビジネス抜き」は無しにしようぜ、‥‥とここまで書いたら、
毎朝聞いているラジオからこんなコトバが流れてきた。
一番騙しやすい人間は、すなわち自分自身である」。
「仕方が無い」「まぁいいか」と妥協して自分を赦すのは、意気地なし・弱虫の所業なのだ、という話だった。19世紀イギリスの小説家・劇作家・政治家エドワード・バルワー・リットンさんのコトバ。あまりのタイミングの良さに引用したくなった。
そうだよな、曖昧・うやむやは敵。「ビジネス抜き」は無しにしようぜ、これでどうだ。