2ペンスの希望

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図に乗って更に亀

昨日亀之助について書いたら、早速中也ファンからメールが来た。
国民的詩人を差し置いて「昼行灯」詩人を書くのはいかがなものか‥ということだった。もっともメールには「 (笑い) 」ともあったので、「昼行灯」についても否定的なわけではなく、むしろ、その「無用の用」を認めるような口ぶりだったので安心した。ということで、今日も図に乗って、亀の提灯持ちを務める。
吉田美和子さんの『単独者のあくび 尾形亀之助』【木犀社2010年6月 刊】から。
中原中也尾形亀之助は、どちらも地方の名家を背負って東京に出て来た長男坊であり、中学から落第して大学卒の学歴を持たず、女にきりきり舞いして大いなる失恋をし、ひたすら詩人であって何の職業をも持ちえず、夢破れて帰郷し(中也の場合は本格的に帰郷せんとして病に倒れたのであったが)、かつ若死にした、というようなことでは、ほとんど相似形の存在である。しかし、繰り出されてくる詩はまったく異なる。詩とはなにか、ということのヴィジョン、文体がちがうのである。  ‥‥中略‥‥
中也の詩は、叙述自体は通俗に似たわかりやすさだが、言葉の外側に、なにか精神が崩壊してゆく予感のようなものをたたえて不吉である。それが歌になってゆく波動の宿命みたいなもの。それに比べると亀之助は中也よりずっと正気だ。亀之助は存在としては相当へんちくりんだが、言葉は醒めている。精神は正気のままに肉体が崩壊していくのを見続けている残酷さがある
」(361・362頁)
別の箇所で吉田さんはこうも書いている。「直接的な詠嘆を自分に禁じ」「(論理や抒情を)ゴツゴツと表面に出さないようにソフィスティケイトするのが、亀之助の詩法である。」(287頁)
もう一人、同時代の先輩詩人高村光太郎の発言。
彼が落ちついた言葉で、ただごとのやうな詩を書くと、読む者の心は異常な衝撃を
うけて時として不思議な胸騒ぎさへおこる。どこにそんな刺激があるのか、読み返してみても分からない。
」    【筑摩書房版『高村光太郎全集』第八巻評論五 278頁】