昨日書いた「日本映画を見る会」と「日本小説をよむ会」の続き。
いずれも京都の町で開かれ長く続いた。昨日も引用した加藤秀俊さんの文章【『わが師わが友 −ある同時代史』1982中央公論社】にはこうあった。
「合評会の会場は、あちこちにうごいたが、いちばん多く使われたのは「晦庵」こと河道屋であったように思う。ここは、三条、新京極あたりの映画街にもちかく、出される料理も、そばだけであって安直だったし、さらに、この店のご主人とわれわれが馴染みで、三時間でも四時間でもいっぱいのそばで座敷を使わせてくれたからであった。 (中略)
京都の会合が深夜におよんでもたのしくつづけられることのできた最大の理由は、京都という町が人間的スケールの町である、ということであった。(中略) たとえば祗園あたりで酒を飲んでいて、さて自宅に戻ろう、ということになっても、当時の金で三〇〇円もあれば、タクシーで帰宅できたのだ。自宅は、おおむね市内にあり、距離はせいぜい八キロ以内。だから、べつだん終電車など気に しなくてよかったのであった。じっさい、タクシー代がなければ、歩いて帰ることだって不可能ではない。 (中略)
要するに、京都の町は、人間的スケールでできあがっているのだ。だから、いくらおそくなってもいい。それにひきかえ、東京というのは、もはや人間的スケールをこえている。湘南方面に帰る人もいるし、千葉・埼玉に自宅のある人もいる。終電車というものが気になる。だから、深更におよぶ議論というのは、期待すべくもない。もちろん、銀座などで深夜までねばる人たちもいるようだけれども、東京のそういうところは、 社用族のたまり場で、やたらに値段が高く、しかもバカ話の場ではあっても、議論の場にはならない。そういう点で、京都というところは、まことにめぐまれているのだ。」
学者先生の、暢気でお気楽な雑考(雑稿?)に見えるが、実感だったのだろう。
この加藤先生の説にさらにひとつ加えたい。
かつて京都の町では、学者と商家の旦那衆、坊さんと職人、新聞記者が隣り合わせで飲んでいるのは普通の光景だった。異業種交流なんてカッコつけなくても日常的にそうだった。店の数も少なかったし‥。東京のように、仲間内、業界で固まって飲むのではなく、見知らぬ同士が同じ酒場で飲むうち議論になる、喧嘩になる、なんてことも頻繁にあった。
これも人間的スケールのひとつに数えたい。 いずれも昭和の話‥今は昔の物語だが。