セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』を読んでいる。【1998年6月文藝春秋刊】ミステリファンや映画ファンの間ではつとに知られてきた小説、上下ニ段組、本文561ページの長編大作だ。本線の物語よりも、間に挟まれる映画と映画界に対するコメントが映画ファンの知的スノッブをかきたてる。あまり品はよろしくないが、例えば、こんな調子だ。
「『突然炎のごとく』はなるほど見事な映画だけど、そのみごとさがまさしく問題なの。できすぎで、そつなく、自信過剰。人間関係の豊かな感情的混沌が欠けている、底の浅いデカルト的習作にすぎない。「文句なく好きになれる映画には、文句のひとつもつけたくなるのよ」
いっとくけど『突然炎のごとく』は精緻にひねりだした独りよがりな男のたわごとよ。ヒロインはボール紙の切りぬきで、自分の肉体を共有した二人の男がどうしようもない腑ぬけだとわかって、突然川に車ごと突っこむ。ミスター・トリュフォーはあの愚かな女が残りの人生をどのように生きてゆくべきか考えつかなかっただけの話よ。」
あるいは、幻の映画監督マックス・キャッスルを巡る会話。
「あなたのいうフランス人とは、いつぞやわたしを訪ねてきた友人二人、それと、パリの左岸にたむろしている彼らの同志数人くらいのものよ。それがひと握りのキャッスル信者。フランスではそれだけで、やれブームだ再評価だと騒ぐの。
うぬぼれの裏がえしよ。あの人たちはアメリカ映画になるとすぐそれなの。彼らは映画が笑わせ、わくわくさせ、巧妙にできてるだけじゃ愉しめない。お金に汚い無教養なやくざ者がつくったものじゃなくては。そして自分たちが気に入れば重要というレッテルを貼り、長ったらしい理論で包装して祭りあげるの」
どこかの国でもありそうな話だ。