2ペンスの希望

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わが儘な映画 アナーキーな映画

佐藤真さんが書いた野田真吉論を再読した。 『ドキュメンタリー映画の地平』下巻【2001年1月凱風社刊】刊行直後に買って読んでいたのに、中身はすっかり忘れていた。十数年ぶりの読み直し。記録映画の先達・野田真吉さんの「民俗神事芸能三部作」を、「意義を押しつけない自主映画」として評価し長文の野田真吉論を展開している。
野田真吉民俗学映画には、学問的解釈や教育的な説教臭さがない。説明抜きでいきなり神事のただ中に放り込まれて、訳のわからないうちに、祭の熱気に巻き込まれてしまう映画である。」と書く。「陶酔に誘われ、睡魔に襲われる映画」とも。「一見無造作に投げ出してあるように見えるが、実は緻密な編集によって練り上げられたものである」と実作者ならではの指摘もある。 (引用は一部改変。責任は引用者=管理人)
誰に依頼されて作った訳でもない。伝統文化の保存や民族学的な研究という大義名分によって作られた訳でもない。勝手に惚れ込んで、スタッフや資金を自ら調達して、手弁当で通いつめて作った私家版の映画である。そのためであろうか、わざと分かりにくく作ってあると思えるほど、地勢風土の解説や神事芸能の沿革の説明が省かれている。見事なくらいわが儘な映画である。
佐藤真さん1957年生〜2009年没。野田真吉さん1916年(15年?)生〜1993年没。
親子ほど以上も歳の離れた二人の映画作家が、映画を通じて通底し交感する。
そういえば、少し前に別の映画人から聞いた話を思い出した。生前に親交のあった野田さんにそそのかされてそれまで持たなかった映画キャメラを廻し始めたという話だった。「何を撮ってもどう撮っても映画になる。とにかく、写したものを見せればいい」というアナーキーな甘言に導かれて、彼は60歳を過ぎて映画を撮り始めた。もとより、「何を撮ってもどう撮っても映画になる。とにかく、写したものを見せればいい」のはその通りだが、そこに、雲と泥、雲泥の差=映画の罠があるのも、これまた事実だ。
かの彼も、野田さんも、佐藤さんも、映画人なら皆知っている。