鈴木了二さんの本『建築映画 マテリアルサスペンス』を読み了えた。
頭が切れて、弁が立ち、かつスタイリッシュな建築家の手になる本ゆえどの程度に理解出来ているのか覚束ない。最後の黒沢清監督との対談が面白かった。
以下すべて黒沢発言。
「建築もそうだろうと思いますが、映画を作るという行為は多くのスタッフでやるものです。監督はスタッフを代表していて、多くのひとが建築現場のように一つひとつ作っています。ただ映画がそういう集団行為であることは、でき上がった作品が流通していく過程ではほとんど省みられることがありません。だからそのことを誰かが指摘してくれると本当に助かるんです。それによって仕事が続けられると思うのです。
いまはコンピュータグラフィックスの技術もありますし、そのような集団作業は必要ないのではないか、という意見さえあります。俳優がいて脚本があって、俳優の顔ばかりをアップで撮って、それでお金がもうかれば、映画は成立するんじゃないのっていう意見です。しかし監督も含め何十人ものスタッフが撮影場所を探し、いろんなものをどう配置して、どうキャメラを置くかということを一生懸命やっているわけで、それが必要ないのであれば、われわれの仕事はなくなる。映画はいま、その危機に立たされている。」
「昔は撮影所がありましたが、いまは撮影できる場所を探していくとどんどん片隅に追いやられ、その結果、普通の町にはないものにでくわすことになる。」
「面白い建物や風景を見つけたら、「撮らないとつぎはないぞ」という危機感を持つようになりました。だから、映画のなかでどのような意味を持つのかを考える前に、撮っておこうと思うようになりました。」
「120年くらいの映画の歴史のなかで、われわれは偽物をいかに本物らしく見せるのか、ということばかりをやってきているのだと思います。それはかなりの技術力なのです。模型、張りぼて、ごまかしの技術。」
「限られたなかであれこれ工夫するのが、八ミリ自主映画出身の者にはなかなか楽しいことなのです。」「苦しい条件のなかで、映画的な何かをねらって一生懸命やっているわけで‥」「何をどこから撮り、なには撮らなかったか、その責任はすべて自分にあると考えると、身の引き締まる思い‥」
(2012年2月29日 LIXIL GINZAでの対談)
良くも悪くも八ミリ自主映画出身らしい自負と我が侭が仄見える。映画好きの若い人にとって、いまや世界のクロサワといえば、黒澤明ではなく、黒沢清を指すらしい。
ピンク映画、ディレ・カン、Vシネ、ホラーと渉ってきた。ガッコの先生の草分けでもある。その黒沢も還暦を超えた。