⑲は吉田喜重 1933(S6)年2月 生。
劇映画に限らず、ドキュメンタリー映画やTV番組、『BIG-1物語 王貞治』から頓挫したメキシコ合作映画まで幅広く取り上げている。
今日は、上野昂志がプロデューサーを務めた唯一の映画『戒厳令』についての一文から、つまみ食い。
撮影は、一九七三年の二月に行われたが、要した日数は、オールアフレコということもあって、二日の休みを入れて一カ月もかからなかったはずだ。スタッフは、監督とプロデューサーのわたしを含めて、総勢二十二人、総予算(引用者註:実行予算のことだろう)千二百万円という規模だった。俳優は、主演の三國連太郎さん以外は、文学座と京都のくるみ座の役者さんたちで、スタッフは監督と撮影の長谷川元吉以外は、旧大映のスタッフが集まって作っていた映像京都と大映労組に方々にお願いした。(引用者註:大映は1971年12月に不渡手形を出し破産宣告を受けて倒産。映像京都は翌1972年初頭に設立。)
照明=中岡源権 美術=内藤昭 懐かしい京都の映画人の名前が並ぶ。チーフ助監督を務めた島田開さん(大映京都 労組)北一輝の妻すずを演じた松村康世さん(くるみ座出身) など管理人がお世話になった方の名前も‥。いずれも撮影所という映画の現場で育ったプロである。
鍛えぬかれたスタッフというのは、そうでない人たちとどこが違うのか。自分の専門分野に関する知識が豊富であるとか、脚本を読みこなす力があるとか、監督の意図を、わずかな言葉からも察して即座に対応できるとか、いろいろあるだろうとは思う。だが、現場でもっとも印象深かったのは、それとはやや違うことだ。すなわち、臨機応変ということである。ものがあればあるように、なければないなりに、機に応じ、場に応じて、そのときできる最高のことを、素早く涼しい顔でやれてしまうということなのだ。予算が潤沢ななかでの仕事に慣れているはずなのに、むしろ、それとは正反対な状況において、本当の底力を発揮するのである。( 「映画館へ行こう!」1995年8月 10号 と 「キネマ旬報」2016年5月下旬号の原稿から一部順序を入れ替え構成。太字強調は引用者 )
教育の場としての撮影所がなくなり、連続体が失われて早や五十年が過ぎてしまった。嗚呼。
付記🔳『戒厳令』:映画としての出来はさほどおススメではないので、正直、予告編を挙げることは躊躇したが‥白黒スタンダードのカメラワーク、光の陰影、時代を感じさせる いかにものatgテイストもまぁ一興かと。裸シーンがあるので、下段「YouTubeで見る」をクリックして、どうぞ。