2ペンスの希望

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黄昏‥‥⑱

⑱は大島渚 1932(S7)年3月 生。

大島については色々書いているが、『愛のコリーダ』(1976年)裁判を巡る顛末が面白い。(どんな裁判かは適当にググってくれ。わんさか出てくる筈だ)

当初訴えられた被告・大島側は「ワイセツで何が悪い」という論陣を張っていた。上野は全面支持。漫画誌「ガロ」1977年11月号に

作品が、「芸術」であろうが「ワイセツ」であろうが、そんなことはどうでもいいことなのだ。できの良し悪しも、ましてそれが「芸術」的な感動を与えたかどうかも関係なく、要するに、オマワリがワイセツ物を取締るること自体が、わたしをかく不自由にしているというのが許し難いのである。

見たいものは見ればいいし、見たくないものは見なければいい。世の中、誰でもが「ワイセツ」好みなわけではないから、そういう人はそっぽを向けばいい。そんなことに、当局が口をはさむいわれはないのだ。それが、我々の基本的な権利だ。刑法一七五条が犯しているのは、たんに何かを「見る」権利だけでなく、「見ない」という自由をも奪っているのである。(「ガロ」連載『巷中有論』「ワイセツでケッコウ」 太字強調は引用者)

と書いた。

ところがその後、被告大島側が「おれのこの本がわいせつなら他のこの本はいいのか」と主張し反証資料のひとつとして『ポルノ78』というあまり知られぬ単行本を提出、つまり、チクったことを、知る。

上野は怒る。

救い難い愚かしさ、許し難い裏切り行為だ。倫理的に責めているのではない。倫理ではなく行為としての「裏切り」を見るのだ。「芸術」か「ワイセツ」かなどという問題ではないなどといいながら、やはり依然として「芸術」の側に転倒したところで「ワイセツ」をとらえていたのか‥‥大島渚らは、まだ生活として「ワイセツ」を生きていないのである。「ワイセツ」は依然として彼らの「芸術」の手段としてあり、その限りで、生活の手段として「ワイセツ」を売るものたち(ストリッパーやエロ雑誌の作り手たち)との分断を平然と受け入れ、彼らを裏切っているのである。その点では、「ワイセツ」そのものを生活から分断している検察側の意識と通底しているのである。(「ガロ」連載『巷中有論』1978年6月号「改めて「ワイセツ」を生きる」 太字強調は同じく引用者。さらに、一部順序を入れ替え、脱字らしきカ所を補い、表記を統一)

エイガもマンガも好きだった管理人は、当時 読んで「そうだよなぁ、上野は正しいなぁ、オオシマはメッキが剥げたなぁ」と思ったものだった。

「売る気満々」の帯 惹句