2ペンスの希望

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黄昏‥‥⑰

⑰は山田洋次 1931(S6)年9月 生。

四本の文章が載っている。後半分は結構ボロクソ、ケチョンケチョンだ。

1960年代のハナ肇映画の面白さと

渥美清「寅さん」シリーズをはじめとする

1970年代以降の映画のダメさ加減を丁寧に具体的に俎上に載せて捌いていく。1988年秋の「リュミエール」第13号「夏が過ぎ、そして秋が来ました‥‥ 続々・山田洋次」ではこう書いた。

いったい山田洋次はなんで映画を作っているのだろうか。山田洋次はいまでも映画を撮っているけれど、ホントは、もう何も撮ることないんじゃないの、と。

人はどうして映画を撮るのか、と正面切って問えば、他でもない映画を見たからだという答えが返ってくるのだろうが、実際に映画を撮るときのモチーフを大雑把にわけると、二通りあるように思われる。すなわち、まず何かいいたいことがあって、それを映画にしようという場合と、それに対して、とにかくなんでもいいから映画を撮りたいというのとであるが、現実のことでいえば、この両者は混在しているのだろう。ただ混在しながらも、いわゆるテーマが先行して、映画で、日本的共同体の問題を描いてみたいという場合もあれば、そんなものはどうでもよくて、とにかく主演女優をきれいに撮りたいという場合もあり、しかもテーマ先行の場合には、それでなんで映画なのかとギモンを呈せられたりしながらも、とにかく一本の映画を撮るにあたっては、どちらからにせよ、なんらかのモチーフが働いているはずである。

ところが、いまの山田洋次の作品からは、そのどちらのモチーフも感じとれないのだ。山田が、いったいなんで撮っているかがわからないというのも、ホントは何も撮ることないんじゃないかというのも、それなのである。メッセージもなければ映画もない、とそう思うのである。メッセージだけで映画がないというのは、ちょっと勘弁してよといいたくなるものの、少なくとも気持だけはわかろうというものだろう。それもないとなれば、ことらはポカンとするしかないし、それはヒドイとかダメとかいってすむレベルではないだろう。

上野がこの文章を書いてから三十五年後の今も、山田洋次は映画を撮り続けている。ハナ肇渥美清もとうに亡くなっているというのに、まるで抜け殻かゾンビみたいに。不幸としか言いようがない。山田洋次にとっても、日本の映画界にとっても‥つくづくそう思う。

秋が終わって 冬=極寒厳冬の時代はどこまで続くのだろうか。嗚呼。