2ペンスの希望

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すべて売り物

昨日久方振りに、京都文化博物館フィルムシアターで映画を観てきた。
アンジェイ・ワイダ『すべて売り物』1968年の映画だ。ポーランドから初来日したワイダ研究第一人者の大学教授氏の特別トーク付だった。「本作は、列車に飛び乗ろうとして事故死した人気俳優の映画ではなく、映画監督の自己探求の映画。一人の映画監督のイニシエーションを基底に据えた三層構造を持つ作品だ」との解説だった。言わんとすることはよくわかった。もっとも、言われなくとも映画を見ればよく分かるのだが‥。
ワイダファンであったとともにチブルスキーファン(最近はツィブルスキとカタカナ表記するらしいが往年のファンとしては敢えてチブルスキーのままでいきたい)の端くれには、胸に沁みる映画だった。「抵抗三部作」で評価され、「現代史を背景に民衆と権力の相克を描いた」と語られるワイダだが、もっと多面的で複雑なメンタリティを感じた。
『夜の終わりに』1961年 や オムニバス映画『二十歳の恋』1962年に連なる印象だ。チブルスキー亡き後のワイダの迷走・暗中模索の中、それでも素直かつ巧みにモダンな作りで映画を撮り続ける姿は痛ましくもあったが、ワイダという映画監督の私的な心情の揺れがつぶさに伝わって来た。上映後の質疑応答で、「監督の映画であることは確かだが、映画にとって役者とは、主人公、登場人物、スターの存在が担う役割、意味するものをどう考えるのか」と質問してみたくなったが、時間切れで果たせなかった。
一人の女優・ミューズがいればそれだけで映画は出来る、とはよく言われる言葉だが、男優も同様だろう。 ワイダにとってのチブルスキー、黒澤にとっての三船・志村、山田洋次にとっての渥美清、‥‥。彼ら亡き後の監督の空気の抜け具合は小さなものではない。あらためてそう思った。監督だけでは映画は出来ない。 
『すべて売り物』‥‥いいタイトルだなぁ。 「すべてが売り物」「すべてで売り物」