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小津の「昭和」 二つ

小津安二郎といえば、「ボクは豆腐屋だから、豆腐しか作らない。豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものができる筈がない」という発言がよく知られる。【田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成』フィルムアート社1989年刊】
もうひとつ、小津はこんなことも言っている。
最近は監督志望者も随分と多い。試験もなかなか難しい。こんな難しい試験ができる人は、監督には向かないのじゃないかとさえ思う。それ程いろいろな知識をもっている人は、他の方面でその知識を活かした方がいいのではないか。今だったら私(小津:引用者註)も木下恵介も落第組だろう。
おわい屋になるには、腕っ節が強く、肥桶をかつげる肩と腰があり、正直であればいいので、おわい屋が聖徳太子を知らないとしても一向差支えない。聖徳太子もおわい屋の厄介にはなったろうが、あまり関係のあることでもあるまい。それと同じことで、監督志望者に、新聞社や雑誌社と同じ試験をするのは、お門違いだと思う。それよりも、ものの見方や幻想力、それから用器画の力を調べた方はいいと思う。殊に、円錐形を六五度傾けたらどう見えるかというような用器画の試験は必要だろう。これはコンティニュイティ(演出台本)を描く時に必要なのだ
」【「映画界・小言幸兵衛」文藝春秋1958年11月号】
用語解説が必要だろう。「おわい屋」とは、糞尿を詰めた桶や樽を農村へ運び、肥料として農家に販売する仕事のことであり、「用器画」とは、定規・分度器・コンパスなどの製図器具を使って設計図などを描く画法を指す。
今や豆腐屋さんも減った。おわい屋さんはもはや死語。見かけなくなって久しい。
「昭和は遠くなりにけり」である。嗚呼‥映画もまた「昭和」なのか。
[今日は、古い映画のテレビ放映の際、冒頭に流れる逃げ口上(エクスキューズ)をまねて「この文章には、一部配慮すべき用語が含まれていますが、作品のオリジナリティーを尊重し、そのままで表記します」としてみます。]