2ペンスの希望

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紙ヒ8 文体礼賛 

ここ一週間長部日出雄さんの本・紙ヒコーキ通信をネタに綴ってきた。
気楽で深くてハマっている。
もういい加減にしろ、という向きもあろうが、別に急ぐ旅でもないので、今しばらく馬なりで行く。 今日は、こんな言葉。
二流の小説が、よい映画になることはあるけれど、一流の小説が、よい映画になる例は少ない」「一流の小説は、独自の文体(スタイル)をもっているからです。この文体は、映画に移しかえることができない。文体をもっているのが一流の作家で、二流の作家は自分の文体というものをもっていない。つまり二流の小説は、登場人物のキャラクターとストーリーの面白さだけで成立しているので、映画の材料になりやすく、監督が想像力を発揮して、よい映画ができる場合があるのです。‥‥
                  【「映画と小説の関係」紙ヒコーキ通信1984年12月】
長部さんの言葉ではない。ジェームズ・カーカップ(James Falconer Kirkup,)さんという1918年イギリス生まれの詩人・劇作家の発言だ。日本との縁が深く、幾つもの大学で教え、日本についての著作も多い知日家の文学者。発言は1984年5月東京で開かれた国際ペンクラブ大会でのもの。長部さんは傾聴に値する意見だと書いている。
確かにそうだ。一流と二流を分けるのは、梃子でも動かぬ文体の有無、
すべての表現について当てはまる。主題や題材より文体。思想や哲学よりも文体。
アタマは嘘もつくがウデは正直。隠しようもない。どうだろう。そうだろう。