数日前に「個性・持ち味」について書いた。(「芸術のことは自分に従う」=1月18日)
それに類する話題をもうひとつ。
31歳の沢木耕太郎が28歳の藤圭子にインタビューして書いた『流星ひとつ』【2013年10月10日新潮社刊】を元に。
まずは YouTubeの視聴から‥
《面影平野》 1977年 作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童 歌:藤圭子
本の中に沢木と藤のこんなやりとりがある。(ちなみにこの本、いっさい「地」の文を加えず二人の「会話体」だけで書き切っている。意欲作?実験昨?)
「好きとか嫌いとかいうより、わからないんだよ、あの歌が」
「わからない? あの詞が?」
「そうじゃないんだ。すごくいい詞だと思う。やっぱり阿木燿子さんてすごいなって思う。でもね。そのすごいなっていうのは、よく理解できる。書かれている情景はよくわかる。そんな情景をどうしてこんなにうまく描けるんだろう、すごいなっていう感じですごいんだよ。たとえば、三番の歌詞なんて、普通の人には書けないと思う。
最後の夜に吹き荒れてった いさかいの後の割れガラス
修理もせずに季節がずれた 頬に冷たいすきま風
虫の音さえも身に染みる 思い出ばかり群がって
切ないよ 切ないよ
六畳一間の 面影平野
特にさ、修理もせずに季節がずれた、なんて、やっぱりすごいよ」
「わからないって、さっきあなたが言ったのは、どういう意味なの?」
「心がわからないの」
「心?」
「歌の心っていうのかな。その歌が持っている心みたいなものがわからないの、あたしには。あたしの心が熱くなるようなものがないの。だから、曲に乗せて歌っても、人の心の中に入っていける、という自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局、わからないんだよこの歌が、あたしには、ね」
「なるほど、そういうことか‥」
正直な心情吐露であり、同時に見事な阿木燿子評になっている。そう強く感じた。
持ち味・個性‥「理由もなくズキンとくるもの」にのみ従う。これ表現者の性だろう。