2ペンスの希望

映画言論活動中です

ドラマとニュース

人から教えられて、BSのTVドラマを観た。
今年の初め亡くなった或る映画監督とその夫人を題材にした60分。TV局の謳い文句は「ドキュメンタリードラマ」だった。根本的なところで人物を捉え損ねていると感じた。
ただこれ以上は、ドラマの脚本・演出家・スタッフ諸氏との認識の違いなので書かない。書きたくない。今日書きたいのは別の話。
これも古くからの友人のキャメラマンが、「ほぼ同じ時間帯にぶつけてCSチャンネルで、〈藤圭子の追悼番組〉が緊急特別放送されるよ」と教えてくれた。残念ながらCS契約はしていないので観られなかった。そうしたら、後日、彼が録画したDVDを貸してくれた。観た。面白かった。この番組『藤圭子〜時代の代弁者〜』【CS歌謡ポップスチャンネル】に歌手藤圭子は一切登場しない。画面には当時のニュース映画が流れるのみ。
そこに藤圭子の唄う歌がただ流れる60分。1970年頃の世相ニュースの編集と選曲・配列の妙だけで構成されていた。ニュース素材は中日映画社の提供だった。
(年配の方はご記憶だろう。当時の映画館では新聞社系のニュース映画が毎週作られ本編と共に併映されていた。)
もとより
ドラマとニュース映像どちらにも作り手たちがいる。
しかし、出来映え(から受け取ったもの)は違っていた。
亡くなった監督に似せよう似せようと凝りに凝ったメイクでソックリさんを目指した役者さんの作り込んだ演技vs名もなきニュース映画キャメラマンがたまたま出会いシュートした名もなき当時の日本人の顔顔顔。  作られた熱演vs切り取られた表情
軍配は後者に挙げたい。
プロの役者さんが頑張れば頑張るほど実像との隙間を感じさせて嘘臭さが漂う。観ているこちらが気恥ずかしく痛々しくなってきた。
一方、ニュース映像は、四十年余りの時間に洗われたせいか程よい生々しさ・リアリティが心地よかった。押し付けがましくない編集の巧みさも手伝って絶妙の距離感が、観ているこちらをくつろがせる。歌に耳を傾けながら映し出される映像にあれこれ勝手な想像力を働かせることが出来る。
作らないで作る余地・余白の大きさの勝利。最近とみにそう思うようになった。