2ペンスの希望

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音・裏方・受容力

飽きもせず映画を見続けながら、最近つらつら思うこと三つ。
その一:音。
映画がいつでもどこでも一人で見られる時代になって、音の役割がますます重要になっている。とりわけ映画館ではそうだ。音の設計・演出が映像以上に官能を刺激する。
かすかに聞こえる効果音。鳴り響く現実音・自然音。突然耳をつんざく爆音ノイズ。
そしてもちろん、劇伴・音楽。音先行、音ずらし、音のフェードイン・フェードアウトといったテクニック。無音がもたらすサスペンス。最近感心した映画は例外なく音の活かし方が巧みだ。目を凝らす以上に、耳をそばだてさせる。
音こそが全身を包み、環境(感興)を支配し、映画の空気感・世界観を演出する。
「監督、映画は音やで」とかつて看破した安藤庄平キャメラマンのことを思い出す。
その二:裏方。
一人で作る映像作家が増えて、一人一人が専門の技能を持って組むスタッフワーク、チームプレイが減った。協力者や参加者は増えたが、手伝い・猫の手以上ではない、失礼ながらそう見える。プロの「裏方」スタッフが居なくなった。どこかには居るのかもしれないが、いよいよ見えにくい。裏方を育てるには、じっくりたっぷり時間も元手も掛かる。
その三:受容力。
映画が基礎教養・必修科目だった時代はとうの昔に過ぎた。いまやかろうじて端っこにぶら下がる選択科目のひとつにすぎない。時代遅れのオールドメディア。
需要の減少とともに、受容力の減衰が進む。ずんずん高齢化し、見巧者はつぎつぎ退場する。新しい胃袋はどんどん小さくなり、嚙み砕く力も飲み込む力も落ちた。(若い観客のことを云々したいわけではない。年取った古狸=拙管理人の受容力・キャパシティの狭さのことを言ってるつもり。)