2ペンスの希望

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文法・演出よりも材料・設定

和田誠編『モンローもいる暗い部屋』を引っ張り出して、久しぶりに巻末近く淀川長治吉行淳之介の座談を読み直した。「こわいでしたねサヨナラ篇」初出は昭和50年(1975)4月雑誌「別冊小説新潮」) スピルバーグ監督の出世作『激突』(1971)を熱く語り、『太陽がいっぱい』(1960)について、淀長さんがホモセクシャル映画第一号だと指摘する。映画ファンの間では、つとに知られたエピソードだ。
ぼくは、貧乏人と金持ちというパターンであの映画を見てましたけどね‥‥」と吉行が語り、同席していた和田誠らも「え、そんな馬鹿な。」と返す。その後「映画の文法」を駆使して語る淀長さんの長広舌・名調子が素敵だ。何度読んでも唸る。年季の入った見巧者・プロの眼力。元手が掛かった迫力は伊達じゃない。あの吉行が「いや、勉強になりました。長いこと小説家やってて、そこに気がつかないんじゃ駄目だな。」と脱帽。
それにかぶせて淀川のトドメの一言 「善良なのよ、あなたさんは。
    ×   ×   ×
何度も読んできた筈なのに、今回こんなくだりがあることに初めて気が付いた。
(ヒッチコックらの語り口・演出のうまさをつぶさに語る淀長さんに応えて)
吉行「うまいなあとは思うんですよ。 けど、うまさが先に立ってわが身に振りかかって
こないんですよ。

淀川「演出をとび超えて、そのシチュエーションに自分が入れるかどうか。うまい材料・設定。この頃はそういうものが当たるようになってきた。つまり一般の見る人の神経が
こまやかになってきたいうか、神経衰弱になってきてるのね(笑)。‥‥お客さん、昔より感覚的に洗練されてきましたね。
」    《一部表現を改変》
感覚的に洗練されてきたのかどうかは知らない。けど、文法・演出より、材料・設定
30年以上前、淀長さんは既に映画の見方・見られ方が変わってきていることをはっきり指摘している。
それにしても、映画は二者択一ではなかろう
どこまでも厚かましい管理人としては、材料にも演出にもうまさを求めたい