2ペンスの希望

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映画の国

精神科医でご自身も高座に上がられる落語好き:藤山直樹さんの本『落語の国の精神分析』を読んだ。巻末の談志論「立川談志という水仙」にこんな一節があった。
落語は職人芸だった。落語は本来そういうものだった。けっして、芸術家の個性の差異をきわどいところで競わせる、近代芸術というものではなかった。落語の世界は問いの発生しない、予定調和の世界だ。そこにごく自然になじみ、落語家を生き、落語を語る。‥(中略)‥あらかじめ内在する落語の論理に沿って予定調和的に暮らしている極楽のような場所、一種の楽園なのだ。その場所を脇から覗き、自分の住んでいるこの世と違うその世界の空気を束の間胸に吸い込みたくて、観客は落語を観に来る。世の中とは世知辛いものである。間の恵はいのだ。そうした世間を離れ、極楽のような落語の世界を垣間見ることが、落語を観に来るということなのだ。」(太字部分:原文では傍点強調)
「落語」を「映画」に置き換えて読み直してみて欲しい。映画界という世界と、個々個別に作られる映画の世界と、映画を愉しむ観客の世界、それらを貫く言葉として‥。

映画を観ることはたやすい。誰にもできる。何の準備も予習もいらない。
しかし、ことはそれほど簡単でも単純でもない。

もいちど、藤山本に頼るなら、映画は、
複雑で知的で独特の含羞と奥行きと陰翳を帯びた」複合生産物だからだ。
「知識」は不要だが、「教養」(リベラル・アーツ)が要る。このことは忘れて欲しくない。