映画がパッケージ化された時代を経て配信の時代に入った今、"観客"ということばがそぐわなくなってきたことについては何度か書いてきた。
「エリートであると庶民であるとを問わず、観客ひとりひとりを暗闇の中で個別に魅惑的な幻想に誘う特異な力を発揮する芸術」であったがゆえに「あらゆる大衆文化の中で映画をとびぬけて早く、かつ別格に、古典的な諸芸術に届く地位にまで押し上げた根源」【生井英孝さんの言葉=「ビデオランド レンタルビデオともうひとつのアメリカ映画史」訳者あとがき から引用 太字強調は引用者】は過去のものとなった。
映画は、白日、場所を問わず、何時でも何処でもアクセス可能となった。かつて まとっていた〈アウラ(aura)〉は希薄化し 消失したようだ。
映画の観客は、ブラウン管・モニターの視聴者となり、タブレット・スマホ画面の利用客・消費者になりかわるつつある?
チョンの間のつまみ食い、隙間ふさぎの出来心、マズけりゃ即ポイ捨て、‥
主導権も移った。静止、早送り、コマ送り、繰り返し、‥何でもござれで自由自在。
昨今の作り手は、それをしも繰り込んで向き合うことを求められてるゥ??
♬ どうすりゃいいのさ、思案橋~(©作詞:吉川静夫. 作曲:渡久地政信. 歌:青江三奈)