2ペンスの希望

映画言論活動中です

幻史 冒頭挨拶文

古本屋さんで『幻史 まぼろし』【幻堂出版2004.12 刊】を買った。表紙の謳い文句に「過激なアマチャのロートル・ローカル・サブカル年代記」(原文ママ)とあった。兵庫明石で長らくマンガ出版や映画活動を続けてきた集団だ。冒頭に漫画家川崎ゆきおの挨拶文が載っている。こちらには「日本標準漫画学院出張漂流教室名誉校長」という肩書がついていた。川崎さんは昔から愛読してきたマンガ家の一人だ。
代表作は猟奇王シリーズ。
挨拶文全文を掲げる。
表現というのは個人的なものかもしれません。 自分の中にある何かを吐き出したい‥という感じです。この行為は気持ちがよいとは限りません。結構苦しいこともあります。その行為をしないと気分的に治まらない、とかもあります。いずれも個人的な事情の反映で、その事情は表向きとは違う場合が多くあります。個人的な思惑が強いほど、表現に対する拘りも強くなります。逆に、別に作らなくてもよいようなものほど、熱心に作ることもあります。拘らないことも、一種の拘りだと言えます。何かを作りたいと思うのは特別なことではありません。プラモデルを作ったり、着せ替え人形を作ったりするのも、自己表現の一つです。ただ、作品として発表する場合、いろいろな要素や、別の思惑が絡んできます。創作者というのは、作品以前の、そういった絡みの中で、どう生きて行くかです。自分の中に、もう一人の自分としての作者がいます。それは生きて行く上で、なくても困らないもので、実用性はあまりありません。大層なことではなく、他愛ないことなのです。人のためよりも、自分の微妙な思い入れなどを表現したいとする気持ちは、実に正直な行為です。その場合、かなり恥ずかしい行為だと感じるはずです。その恥ずかしさを大層な題目に置き換えないで、そのままの小さな自分の世界を誇大解釈しない勇気も必要です。表現や創作にかかわる人にとって、その多様性や特殊性を垣間見る行為は、こういうやり方もあるのかということで、頭がほぐれるかもしれません。
オマケ:
川崎マンガ『猟奇王』 管理人のお奨めページはコチラ↓
http://kawasakiyukio.com/cm/17/01.html
http://www.kawasakiyukio.com/cm/rt/rt1/02.html