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友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ

ニシナリ⇒尼崎⇒川崎⇒競輪⇒友川カズキ という流れで『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』を読んだ。解かり難さハンパなくて‥ごめんなさい。

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よくある「語り下ろし:インタビュー本」だが、ウエハースみたいなフワフワお手軽本ではなかった。めっけもの、拾い物。結構腹持ちの良いずっしり重い本でした。友川カズキの名は、1977年NHK紅白歌合戦ちあきなおみの伝説の熱唱(怪唱?)『夜へ急ぐ人』の作詞作曲者という程度しか知らず、歌もちゃんと聞いたことが無かった。本では「土方、時々、歌手」と名乗り、「変に奥手な目立ちたがり屋」と自己分析している。傍線を引きながら読みたい箇所が幾つもある中から、一つだけ‥少々長いがお付き合いを。

歌は誰のものでもない

‥‥それでね、「みんながわかる」っていうのは「みんながわかていない」というのとある意味同じなんですよ。で、最終的にわかっていてもわからなくても、どっちでもいいんですよ。だって「わからせる」のが表現することの目的ではないからーー。

 こと「歌」に関しても、共感することだけが大事だなんて一切思ってない。それぞれが勝手に解釈したり、しなかったりすればいいわけで、否定されようが、拒絶されようが、構わないんです。

 そもそも「歌」っていうのは、歌ってしまった以上、すでに私のものではないんです。聴いた人のものでもない。「歌」は「歌」のものなんだ。人と人のあいだに「歌」が浮かんでいるだけなんだ。それを他人がどう思おうと、どう解釈しようと知ったこっちゃないんだ。だから次々と作り、歌うだけなんです。それって説明するのがとても難しいことですけど、そういう気持ちでやってるの。作ったから俺のもの、歌ったから俺の歌、ではないんだ。

 絵も同じでね。人前で飾られた段階ですでに画家のものじゃないんだ。「絵」のものなんです。人と人のあいだにあるものともいえるけど、単なる距離感とか所在の問題じゃないんだな。感覚なんですよ、個々人の。だから「この絵は俺のものだ』「この絵は私のものだ」って思ったらその人のものでもあるし、その絵や歌は彼や彼女の裡に元々存在していた「何か」なんですよ。受け止める「何か」があったからそう思うんだし、その「何か」に対象が触れ合うかどうかがすべてなんです。

 私がよく使う言葉に「何かに気触れてゆく」という言い方があるんだけれども、人の気が触れたものの中にしか存在しない表現ってあるんですよ。あらゆる表現が「そこに触れるかどうか」という性質のものでなけれならないし、みんなのため表現、万人のための芸術なんてありっこないんですよ。観念的な物言いに聞こえるかもしれませんけど。

 もちろん、ジャンルの差というか、方法論の違いということはあります。そこは個人差はあるし、「歌も絵もみんな同じだ」というのは、ちょっと力みすぎだしね。それぞれの向き不向きとか、技術だとか、やり方の違いというのは確かにある。

 でも大前提として、歌うことと聴くこと、あるいは絵を描くことと観ることって、ほぼ同レベルのことだと思ってるわけ。一瞬、同じ風景を見てるんだろうと思うわけ。それを取捨選択していく時、自分の生理だったり感性だったりにフィットするかどうかだけの話。やっぱりどこかで「浮いている」ものなんだよ。それを掴み出せるかどうかは、個々人の才気なんだな。表現する側も、受け取る側もね。その作品にどのような意識で向かうか。「何に焦がれていくのか」、「何を焦がしていくのか」、ということでね。そういう「何か」を焦がしているニオイみたいなものが、伝染していくんだな。

 表現ってそういうものだし、何か立派なものでも崇高なものでも、なんでもない。単なる立ち方、向かい方の問題なんです、個々人の。

 

「歌」や「絵」を、「映画」に置き換えて読んでみたくなった。