2ペンスの希望

映画言論活動中です

スタートはどこ?

スタートはどこ? ‥‥そして、ゴールは? 

恩田陸小川洋子の対談を読んでそんなことを考えた。KAWADEムック『恩田陸 白の劇場』【2021.2.28 河出書房新社所収の対談「小説と世界の秘密」(初出「群像」2006年4月号)

f:id:kobe-yama:20220325205045j:plain

 

f:id:kobe-yama:20220325202810j:plain

小川洋子

小川:純文学からスタートした人の多くはたぶん、最初はなぜ書くかというと、自分を表現するためなんですね。そこからスタートする。私自身もそうでした。でも、だんだん書いていくうちに、自分は表現するほどの人間だろうか、という疑問がわいてきたんです。自分は、小説という魅力的な器に投影させるほどの人間ではない、もっと小説の器のほうが広い、寛大なものだということが、書いていくうちにだんだんわかてきたんです。そうなってくると、自分などどうでもよくなってきた。むしろ自分の理性とか感情を超えた世界に行くために物語はあるんだということが、十何年たって、ようやく実感できるようになりました。

f:id:kobe-yama:20220325203834j:plain

恩田陸

恩田:純文学の人は、作家になるために小説を書くと思うんです。最近はエンタメでも、作家になるために小説を書くという人が増えてきたけど、元々エンタメの人は小説を書くために作家になるという気がします。しかも、自分が単なるファン、自分に文学的なものがないという自覚がすごく強い。

かつて文学の世界は、純文学や中間小説、大衆小説といったジャンル分けで語られてきた。いや今だって、ラノベやエンタメを低く見る向きあろうが、ジャンル分けによる腑分け・差別化はドンドン無効になりつつあるともいえそうだ。無差別自由形。映画だって、同じことだろう。初発は自己表現だろうと、目指すのは映画という魅力的で大きな器=エンタメの中に自分を溶かし込んだウエルメイド(well-made)品 だ。

娯楽映画は安物で、芸術映画は高級だなんて嘘八百はもはや通用しないぜ。