引き続き、背反有理2021冬コレクション 続き ↓
「文芸の世界には只一つの正解など絶対にない」
(古舘曹人『句会入門』から アヤフヤにして、クッキリ ハッキリ メイハク アリアリ マザマザ ‥ )
「息をしながら 窒息してる感じで 死にはしないまでも 生きている心地がしない」
急がば回れ Walk don’t run.
いつでも帰れるから、帰れない
(香港で活動するタンザニア商人の言葉 小川さやか著『チョンキンマンションのボスは知っている』209頁 春秋社)
百聞は一見に如かず ⇔ 聞いて極楽見て地獄
後ずさりしながら、未来に向かう
‥背反有理の始発点:実はそもそもは ポール・ヴァレリーの言葉だった↓。初めて知った。面目ない。
「人はうしろ向きに未来に入っていく」
※出典については、諸説あるよう。出典分からず、和訳とボート漕ぎのエピソード(下記)だけが独り歩きしているみたい。
湖に浮かべたボートを漕ぐように / 人は後ろ向きに未来に入っていく / 目に映るのは過去の風景ばかり / 明日の景色は誰もしらない
カッコいいので新聞記者が好んで引用するフレーズのようで、読売新聞編集手帳竹内政明 朝日新聞河谷忠夫 沖縄タイムス「大弦小弦」稲嶺幸弘 等多数が使ってる。ただ、行儀の悪い新聞記者特有で出典・引用元・翻訳者抜けてるのでもどかしい。
ヴァレリー「精神の政治学」(『ヴァリエテ Ⅲ』所収)には「我々は後ずさりしながらに未来へ入っていく」という表現が出てくる。
何時だったか、私が人間の未来というものをどう考えているか、また世界が五十年後にはど
うなっていると思うか、聞きに来た人があった。私が返事に困っていると、その人は要求を
減じて、「二十年後にはどうなっているでしょうか」と聞いた。私は、その時、「我々は未来
に後退りして進んでいく」と答えた。 と、ある。
――――ポール・ヴァレリー『精神の政治学』中公文庫 p65
いっそ
大きく凹もう
いつか
多くを満たす
器になるのだ
(伊東柚月『五行歌秀歌集Ⅰ』草壁焔太 編 市井社 刊)
「時間がなかったので、長文になりました」パスカル
ネット時代の進行で ↓
集まらずに集まる仕組み・工夫
触れずに触れる 琴線に
「人間こそ最も非人間的」
(鶴見俊輔「リンチの思想」埴谷雄高編『内ゲバの論理―テロリズムとは何か』三一書房/1974年)
「動物はリンチしない。いかなる猛獣であっても、腹がくちたら、弱小の獲物がまわりをうろつこうが悠然と放っておくものである。四六時中、だれかおのれより弱小の同胞を探しあて、たえず血祭りにあげないと気がすまないのは言葉をもって本能を解体させた人間だけである。そもそも「人間こそ最も非人間的」なのである。」
「死は生命体が避けたいものの筆頭。そして、避けがたいものの筆頭。」
(徳永進『まぁるい死鳥取・ホスピス診療所の看取り』 朝日新聞出版/2019年)
人間なら解ける
人間にはとけない
(小谷善行さん:計算機科学者 パズル愛好家 東京農工大教授情報工学 パズル懇話会会長)
「みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」
(長田弘 1973 『アウシュビッツへの旅』?『記憶のつくり方』?)
「半端者を極める」
(コラムニスト小田嶋隆が「器用でありながら、決して名人芸にいたることのない」タモリのことを評した言葉。半端者を極める、というこの言い方には、逆説がかくれている。というのも、「半端」であるということは、「極めない」ということで、だから、半端のようなものであっても、極めたが最後、その人間は半端者ではなくなってしまうからだ。『コラムの切り口』ミシマ社2020.3.20 ) もう一つ ↓
「意味なんて言葉は無意味だ」(小田嶋隆 同上)
「区切りとは切り離すことでありかつ結びつけることだ」
(ジンメル 『橋と扉』 1909 )
「根源が到達点なのだ」
(ドイツの作家カール・クラウスの言葉。山口裕之の『映画を見る歴史の天使』より)
その人は、目の前にいる。けれどその人の一部は、見せてもらえない、目の前にない。つまりどこかが不在なんだ。