田崎健太さんの『全身芸人』【2018年12月 太田出版 刊】を読んだ。
元は『月刊 実話ナックルズ』 の「絶滅芸人」という連載記事だ。
プロローグにこうある。
「本来、芸人とは日常生活の埒外に棲息する人間たちだ。舞台の上に立つ彼らの眼は醒めている。寄席の機微を肌で感じながら、ネタを微調整して笑いを取っていく。彼らには強い矜持がある。だから必要以上に客に媚びることはない。そして、勘の良い客は、家族や会社、組織に縛られない芸人の怖さを感じ取っているものだ。自らの足元は安全な場所に置いていることに安堵しながら、日常と非日常、聖と俗の境目を歩き回る彼らをげらげらと声を出して笑うのだ。
芸は刹那である。笑いは時代にぴったりと寄り添うものだ。そして、世間を席巻した笑いはあっという間に風化し、使い捨てられる。爆発的に売れる以上に、売れ続けることはもっと難しい。年をとるうちに時代の空気を感じる感覚は失われていく。だからこそ、表現者の先達として、年老いた芸人の生き様を追ってみたいとずっと考えていた。不発弾のような狂気を抱えた彼らは人生をどのように閉じていくのか、興味があったのだ。」
最初に登場するのは月亭可朝。年配の関西人以外には記憶にない人か
もしれない。ググって頂戴。
こんな言葉を吐いている。「俺らみたいな生き方をしようと思ったらな、繊細で気が小さくないといかんねん。繊細でない奴は、崖っぷちを歩かれへん。崖っぷち歩こうと思ったらね、ここは滑りそうやから足をここに降ろそう、ここは小股で歩かなあかんという風に考える。」
繊細で気が小さい‥表現者全般に当てはまる必要条件だろう。映画だって同じことだ。不用意・不用心ではイケナイ、いかない。スマナイ、すすまない。