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物申す 万葉学者

TOKYO2020 テレビ観戦中だが、相変わらず本は読んでいる。(映画の方はとんとご無沙汰だ)その一冊。品田悦一『万葉ポピュリズムを斬る』【令和二年一〇月五日 短歌研究社 刊】

「令和」と年号が発表されたとき「国書である『万葉集』から採った」と説明した安倍晋三首相を、「馬鹿も休み休み言え・不勉強も甚だしい」と物申した本だ。

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①そもそも元号という言葉はなかった。年号と改元はあったが。

②国書とは、元来外交文書のこと。

③しばしば〝日本文化の源流〟だの〝日本人の心のふるさと〟だのと形容される万葉集だが、中国六朝時代(三世紀~」六世紀)の詩文 張衡「帰田賦」〔『文選』賦編〕王義之「蘭亭集序」を典拠にもつこと

などを文学研究者の端くれとして述べている。学者の間には諸説あるようだが、品田さんはそんなことは百も承知で、黙っているわけにはいかない、と「喧嘩を売り」「剣突をくわせた」わけだ。詳しくは直接読んで貰うしかない。

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 本の最後に置かれた「二〇一九年十一月三十日に日本女子大学百年館での講演」の末尾が面白かった。

自分というアイデンティティー、自分が自分であるという意識には、様々なレベルがあると思うのです。一人一人の内面ではそれらが複雑に絡まり合っていて、ある場面ではあるレベルが、別の場面では別のレベルが前面に出て来る。性別だの、出身地だの、居住地だの、家族、親族関係、職業、宗教」、思想信条、さらには好きな音楽やら贔屓のスポーツ・チームやらについて、いくつもの立場や帰属意識が折り重なっていて、そのうちいくつかの層は互いに衝突する場合だってある。ですから、〈私は何者か〉という問いに対しては状況に応じていろんな答え方がありえるし、ただ一つの正解などないのがむしろ健全な姿だと思うんですね。

ところが、そういう、本来多角的・多層的であるはずのアイデンティティーのうち、どの国に帰属しているかというレベルばかりがむやみにせり出して、他を圧するようになったのが近代という時代でした。世界が大小の国民国家とその植民地とに分割されたことが原因となって、「アイデンティティー失調症」ともいうべき病気が蔓延したわけです。別名「国民意識肥大症」。明治二十年代の日本で『万葉集』が国民歌集に仕立てられたのも、そういう病気の病状の一つであり、それもかなり典型的な病例なのだと思います。

歴史家の網野善彦さんは、人類は今や青年期を脱して壮年期を迎えたのだと言いました。たぶんそうなのでしょう。少なくともそう思いたい。国と個人が一蓮托生であるかのような発想は、生存競争に勝ち抜くことが至上命題だった時代には役に立ったかもしれませんが、人々が叡智を結集して地球規模の難問に立ち向かおうとする際には、役に立たないどころか、邪魔にしかなりません。「国民」のもう一段上に「人類」という帰属意識を培うこと、そのための道筋が、本気で追求されるべき時期に来ているのではないでしょうか。

 ニッポン頑張れの大合唱にも、聞かせてやりたい。

そういえば、ちょっと前のプレジデントオンラインの記事に古谷経衡さんがオリンピックにコメントしてた。「やるなら(静かに)勝手にやってくれ」と。