2ペンスの希望

映画言論活動中です

意地悪ハスミンと岡田君

熱心なネット渉猟派ではないのだが、岡田秀則さんのことを当たっていたら、こんなページに出くわした。

意地悪爺さん数世代のちに続く後輩 真性映画中毒患者二人の対談。

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いささか古いが、賞味期限切れではなさそうだったので、リンクを貼って便乗コピペさせて「いただき まぁ~す」。

rittorsha.jp

森はるかについて

「誰でもができること」になってしまった時に、どうするのか。「誰にもできないことを、どうするか」ということが、いま誰にも分かっていないんです。

「映画に何らかの形で足をすくわれてしまって、そこから逃げ出せなくなったけれど、逃げ出す以上のことを自分はしてやるんだ」という感じの人がいるけれど、それとは違うんですね。

なんか本当に、独りで映画を発明したようなところが‥。

 

スマホ時代の映画体験について

自分より見ているものが小さいと、軽蔑が働くんです。だから自分より大きいものだと、軽蔑がどこかで削がれるわけです。ですから、大きなスクリーンで見なければいけないと思いますね。それから、小さいものというのは、解像度の問題もありますけれど、やはり絶対に見えないものがあるんですよ。

知らない人と一緒に映画を見ているのが良いのではないかと‥

知らない人と一緒に映画を見るというのは、怖いことなんですよ。隣にいる人が誰なのか、全然分からないわけですから。それからやっぱり、拘束されないといけないということ。テレビやスマホの画面で見たって、拘束はされないんですよ。

映画より自分が先になってしまう。

今は、「見せてやらないぞ!」という姿勢が必要なような気がします。

 

う~むっ、オールド映画ファンにはどれも分からぬわけでもないのだが、先輩風を吹かせているところも少し感じる。若い衆はどうなんだろうか?

 

 

 

看板屋

岡田秀則 監修 貴田奈津子 企画の本『昭和の映画絵看板 看板絵師たちのアートワーク【2021年6月30日 トゥーヴァージンズ 刊】は懐かしく胸が熱くなる本だ。抱きしめたくなる。

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企画の貴田奈津子さんが、大阪ミナミ千日前にあった映画看板屋「不二工芸」にまつわる話と写真を集めた352頁。(不二工芸は、奈津子さんの祖父貴田不二夫さんがつくり父明良さんが継いだ映画看板職人たちの工房だ。)

都築さんの帯も素敵。往年の大スター、名画の感触が蘇り、看板の大きさまで浮かんでくる。

ということで、職人たちの記憶インタビュー=座談 から。

——俳優によって描きやすい顔、描きづらい顔ってありますか?

伊藤晴康さん:アラン・ドロンとね、オードリー・ヘブバーン、エリザベス・テイラーはむちゃくちゃ描きやすいんですよ。日本人は難しい。特に特徴ない顔。僕いつも怒られたのが、田中絹代という人。あれが全然、いつも似てないと怒られた。

松原成光さん:苦手っちゅうかね、嫌いやったのは、山本富士子高峰三枝子、それから、岸恵子。のぺーっとした顔ね。あれは描きたくなかったねぇ。幸い山本富士子大映やったから描くことなかったけどね。他にもおったねぇ、新珠三千代。大体のぺーっとした顔でしょ。

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松原成光さん:外国映画では『ローマの休日』、日本映画では『七人の侍』、これを同時にやってるんですよ、千日前で。スバル座と敷島で。200メートル位離れたとこでね。今でいう歴史に残る名作映画が同時に封切られてるんです。どっちも不二工芸。その看板を、私はいまでも忘れない。

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松原成光さん:看板というものの性質上、遠くから見て効果があがるように描かなアカンでしょう。だからあまり細かく描きすぎると、イザ、上がった時なんかジジくさいナという感じになるんやね。そうかと言って、あまり省きすぎると絵が薄っぺらになってしまうし‥‥。やっぱり「色」でキマルね。

 

いいなぁ、映画も看板も「色」でキマル。

折り合い

時代はドンドン入り組んで、ますます複雑になっている。だれにでもわかり白黒ハッキリしたしろものなんて見当たらない。すべてはグレートーンで拡がっている。そんな現実世界では、勝負どこはどこでどう折り合うかだ。か✖かではない。妥協点の探り合い、何を持っているか、まわりには何があるか、誰がいるか‥‥。

折り合いとか利害打算・妥協といえば、イメージは芳しくはない。けど、我々は、複雑怪奇な時代に生きている。どこにも単純明快なものは見当たらない。

世の中のすべては「あいだ」にある。あるものでつくる。無い袖は振れない。映画だって同じこと。無い物ねだりしたってなにも始まらない。泣き言や愚痴は慎んで、ギリギリと妥協点・折り合いのつばぜり合いを重ねる方が健康的だろう。

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ブレイディみかこさんの本『他人の靴を履いてみる アナーキー・エンパシーのすすめ』【2021 文藝春秋にはインド洋交易での海賊船やアメリカ大陸の先住民たちの交渉術を紹介している。お互いに、違いが存在することを認め合い、どこまでなら譲り合えるかを擦り合い、擦り合わせる「折り合いのつけ方」が「世渡りの方法」だとある。

フランス文学者だった渡辺一夫はかつてこう書いた。「僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。【1951『渡辺一夫随筆集 寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』】

折り合いから生まれる寛容。その涵養が肝要かも。

 

ゴール

「機材の安価軽便高機能化と通信の普及浸透日常化で映画は作り易くなった一方、作り難くなった」「日本の映画は液状化が進んでいる」

これが当ブログの基本認識だ。開始以来ずっとそう主張してきた。

2012年1月のブログスタートから足かけ十年 、映画はキツイ時代、ムズカシイ時代に突入してもがいている。

ただ、「昔はよかった、凄かった。俺たちの時代は‥‥」そんな懐古談・自慢話は極力避けてきたつもりだ。けど、トーンはおおむね悲観的だったかもしれない。残念ながら、基本認識は今も変わらない。が、そう悲観的でばかりはいられない、最近そう思うようになった。(老化のせい、性急鈍化のなれの果て=残り時間が少なくなって、感受性がゆるくなったゆえかも知れないけれど。)

映画は死なない新しい映画が生まれることは間違いない、まだまだたっぷり時間がかかりそうだし、そのための条件も並大抵ならず容易ではなさそうだが。作られ方も、流通頒布の方法も、受容のスタイルもきっと全く様変わりすることだろうが。これだけシンドイ時代、ヤッカイナ時代が続く中にも、ごくごくわずかだが新しい地平を拓く映画が生まれ(ホントにごくごく稀、それも大半 外国の映画なのは残念だけれど‥)、映画に出会い魅せられる十代二十代三十代の若い世代が登場してくることを頼もしく思い描き期待したい。ロートルの希望的観測に過ぎなくとも。)

「映画は終わった、映画は死んだ」なんてほざくのは外野・評論家の無責任なタワゴトだ。彼らには何ひとつ見えていない。

物が作られるのはいつも制作の現場だ。すべてはそこにあるのだ。さらに加えるなら、答えやゴールはひとつじゃない。見えないが無数無限にあるのだ。いやそもそもゴールなんて無いのかも。

人間が映画というものを手にし魅惑された限り、歴史は続く。どれだけ困難で遠い道のりだろうと、自分の脚と腕と頭と腹を鍛えながら前に進めばいい。及ばすながら、応援は惜しまない。

(今日は、えらく情緒的 詠嘆的になってしまったが‥まぁ、こんな日もあるものだ。)

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無限

 今日は数学問題。長さの違う二本の赤い線分。さて、持っている点の数は、どちらが多い?

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一見、短い方が少ないように見える。ところが、答えは、まったく一緒。

点の数はどちらも同じだけあるのだ。

数学の世界では有名なゲオルク・カントールの「無限」。

三角形と青い補助線を加えてみる。

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青い線に注目。赤い線との交点には必ず同じ数だけの「点」が存在する。1:1対応。つまりは、短い方にも長い方にもまったく同じだけの無限個の点が存在するということになる。

直感や常識の世界がすべてでないことは、知っておいて損はない。狭隘が開かれ、世界が豊かに見えてくるからだ。カントールは「無限の濃度」と呼んだそうだ。今日の問題、三宅陽一郎さんの本『人工知能のために哲学塾』【2016.8.10 BNN新社 刊】で知った。三宅さんは大学で数学を専攻し、今はゲーム AI の開発者のようだ。

理解より体感を

 


映画はストーリー・物語があるので、文学や演劇に近く感じることが多いかもしれない。けど、違うのではなかろうか。

むしろ、音楽や建築にちかい生産品・構成物なのだろう。

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作曲家がいて、演奏者がいて、技術者たちが集まってリリースする。

施主がいて、建築家がいて、工務店・棟梁が指揮し、諸職が寄って仕上げる。そんなところが似ている。ともに集団作業なのも同じだ。

と、ここまでは何度か書いてきた。

今日は、別の話。

映画は、理解することより、身をゆだねて体感することのほうが楽しいし、ふさわしかろう という話。

五官を総動員して、全身で受け止めひたる表現物、体感 質感 触感 手触り 肌ざわり‥‥ぬめり、とろみ ねばり サラサラつやつや ふかふか ほっこり まったり ‥‥‥。 

皮膚感覚で着る、身に着ける 身にまとう、

浴びる、浸かる、泳ぐ、全身浴。入浴後のぬくもり、視聴後の後味も捨てがたく尾を引く そんな産物。

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空間や空気を呼吸する。テクスチャー フレーバー ムード トーン タッチ ニュアンス アトモス アトム コスモス ‥‥ 

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着心地、居心地、住み心地を味わえばよい。意味よりテイスト。理解より共感。合う合わないで決めればよい。

虚か実かにこだわるのではなく、目を凝らし、耳を澄まして、浴びればいい。味わえばいい。

 

伝達より生成を

映画は伝達より生成だ、最近 そんな思いが とみに深い。

映画の醍醐味は、情報や知識を伝えることにあるのではなく、新しい意味や価値を生成する場をいかにつくるか、そのテイストにある、

大切なのは、題材や主題・対象を説明し伝達すること以上に、作り手の経験(キャリヤや力量の総体)をその経験の偏りとともに、映画のテイストとして丸ごと提示すること、ゴロンと差し出すことなのだ。作り手は精進を重ね、受け手は送り手の経験の偏波を受信し、場の生成に参加・関与するかどうかを決めればよい。そこに生まれた場の味わい・風味が新しい美や快感を産み出すことにつながれば御の字・ベストだ。受け止められなければ、お互い反省して出直すのみ、そんなことではなかろうか。

《create:クリエイトは generate:ジェネレイト》そんなスローガンが浮かぶ。

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いかに出会い、生成し、ハイタッチを交わし合えるか、それが 映画だ。それこそが 映画の真価だ、進化だ、深化だ。