2ペンスの希望

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私家版

北海道に暮らすいとこ夫婦から本が送られてきた。
金婚式を記念した限定五十部手造私家版の歌集『女房日記』。夫は道産子・近代詩が専門、妻は関西人・中古女房文学の研究、ともに国文学者。添え書きにこうあった。
「道民五十周年を経て、傘寿を。そんな半世紀を綴りました独り言、お耳障りかと存じ上げながら、お足下まで。お目に届きましたら幸でございます。」
耳障り、足下、目に届く、など身体にまつわる言葉が、体温と自制のバランスを伝えてくる。飴玉をしゃぶるように、口の中でゆっくりゆっくり読んでいる。
冒頭に、「序文に代えて」夫の献詩があり、そのあとに続く最初の一首。
「不惜身命 曼荼羅曼殊の花ぞふるひとを離れにし懐にふる」
不惜身命――文字面から何となく意味は分かる。元来は仏教から来た言葉のようだが、由来は知らずとも、思いは伝わってくる。いのちを惜しまず尽くす。拙のようなオールド映画ファンには「ヤクザ映画」の惹句のようにも読める。(何とも下司で御免)しかし、昭和一桁生まれのいとこにとっては戦中、国のために命を投げ出した青年のイメージが遠景にあるのかもしれない。生涯様々な出会いと別れを重ねて、いとこは今「誰に」「何に」尽くすのか。
読んでもうひとつ気付くのは、「ふ」の繰り返しだ。「ふしゃく」と始まり、花ぞ「ふる」と詠み、最後は「ふところにふる」と「ふ」を重ねて終わる。三十一文字の中に「ふ」が四音。ふわふわとどこかはかなげで、否定的なニュアンスも漂う。
思い込みがすぎるといわれるかもしれない。が、過剰な読みは読者の特権だ。詠み手に選び取られた言葉が、読者の自由な逸脱を導く。これが文学表現の核だろう。
私的に詠み、私的に読む。
思えば、昨日は、メディアについての本の話だった。
メディアとは、場であり、空間であり、形であり、「容器」であろう。
「容れ物」より「何を」「どう」盛るか、管理人にはメディアより表現への関心の方が強い。「何を伝えるか」の報道者であるよりも、「どう描くか」の表現者として生きてきた(つもり)だ。「表現労働者」そう思ってやってきた。
はからずも、メディアと表現、容れ物と盛り付けの話が二日続いた。