2ペンスの希望

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「余技雑技」 アマチュア

産業としての映画・事業としての映画が終わり、全てがフラット化していく中で、新しく生みだされる日本の映画は一体どんな形の映画になるのだろうか?
書籍や出版になぞらえてみると、とりあえずは「自費出版」のような形態が見えてくる。
音楽の世界で云えば、大手(?企業?)に属さず独自の路線で活動を続けるインディーズ、シンガーソングライターのような道もあろう。
或いは、週末画家、日曜大工のたぐいか。
つまりはおしなべて趣味としての映画・自己表出としての映画・自己表現としての映画・自己実現としての映画・自己慰安としての映画‥‥ということにでもなろうか。
お隣り中国の賈樟柯:JIAXIANG ジャ・ジャンクー監督は、自著の中でこう語っている。
マチュア映画の時代が再びやってくる」と。 【2009年12月21日以文社
『「映画」「時代」「中国」を語る』】  つけ加えるなら賈監督の唱える「マチュアとは、 制作レベルの低下を指すものではない。陳腐で硬直化した創作方法や映画制度に対抗する(自由で柔軟な‥引用者が勝手に付言)精神の運動=姿勢のことだ。
彼は、「映画を撮ることは「余技雑技」である」と断言してはばからない。 
言わんとすることは分からぬでもない。
けど、アマチュアだから許してね、大目に見てよ、というのでは困る。(賈監督がそう言っているわけでないことは百も承知だ。けど、どこかの国の頓馬が、プロ=上等 アマチュア=下等という安易安直な二項対立図式に走る懸念を考えると、チョット言っておきたくもなる。)出来損ないのアートを「作品」として押しつけられてもはた迷惑なだけである。建てつけの悪い「犬小屋」は御免だ。「縁者」や「信者」の間でなら、それでも済むかもしれない。誰かが目をつむったり我慢すれば何とかなる、そんなこともあろう。が、表現が露出し、市場と接点を持ち、流通が始めれば、そうはいかない。
覚悟とたしなみが求められる。
「余技雑技」だからこその命懸け、無用の用、それが文化の文化たる所以である。これは自明のことだろう。
自費・自主・自前・自弁で立つしかない自給自足が、閉じた自己満足に終わるのでは
映画百年の蓄積が泣く。
最後に、文学・文芸の例も挙げてみようか。
辺りを見回しても、詩専業で飯が食えているのは、谷川俊太郎ひとり、あとは大学のセンセイや語学教師などの兼業詩人(自称詩人?)だらけ、というのが実情だろう。ん?相田みつをもいたじゃないかって。申し訳ないが、拙管理人は認めない・認められない。
間違って貰っては困るが、ダメだといっているのではない。情けないと慨嘆しているわけでもない。我が国には、和歌や俳句のような世界もあって、結社や宗主になって結構な暮らしをしているという話も聞く。「縁者」や「信者」ビジネスとしての文芸。
いかんとは云わぬが、いかんには思う。いかんともしがたいことだが‥