2ペンスの希望

映画言論活動中です

作法=form

内山節さんに「作法」という言葉があることを知った。【『哲学者内山節の世界』:2014年8月『かがり火』編集委員会編 新評論刊】
長く群馬県上野村に住み、山里の哲学者として知られる人物だ。
(内山)は自然のことはよく知らないのに、圧倒的に話は僕のほうができるわけですね。村の人は自分のことは実によく知っているけど、話になるとたいしたことはない。よく知っている人が言葉にならないで、よく知らないのにどこからか聞いてきた話をやってる人間のほうが言葉を持っている。これは変だな、と思ってきた。
自然との関係においては、思想は村の人のほうがはるかに深いものを持っている。では彼らの思想はどこに表現されているか。言葉を使わない、言葉以外の表現形態があるわけで、それは一つは作物を育てたり森のいろんなものを利用する多様な「技」だったりするんですが、その技なんかも含めて総称すると、「自然に対する作法」に思想が表現されている。
だから畑に行ったときの作法があるし、木を切るときの作法もある。そういうものが思想の表現として生きていて、僕らは技や作法で表現できないから言葉に依拠するしかない。思想表現の方法はいろいろあるけど、「作法」はその重要な一つであることに気付いたということなんです。技とか作法で思想を表現することができれば、言葉なんて要らない。

スタイルやスキルが重要だ、とは何度も書いてきた。文体・佇まい・立ち姿、‥‥どれもイマイチしっくり来なかった。「作法」という言葉に出会って、膝を打った。
映画に求められるのも、作法なのだ。身のこなし・身についた所作・心得。
英語で言えば、style(様式・文体)より、form(作法)。 ただ、間違ってはいけない。
型を覚え、見てくれを繕うことばかりに長けていくのでは身にならない。メッキは剥げる。練られたフォームは、無駄なく美しい。傍から見ても、誰が見ても、だ。
それにしても、ひ弱な都会育ちの自然知らず(管理人のことだ!)は、性懲りもなく言葉で語ることが止められない。面の皮の厚さは度し難いがどうしようもない。