2ペンスの希望

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稼ぎと仕事

昨日に続いて、山里の哲学者・内山節さんの言葉。「稼ぎ」と「仕事」について。
最初はその使い分けが分からなかった。村人が「仕事に行ってくる」「稼ぎに行ってくる」と言うんだけど、同じことだと思っていた。ところがあるとき村の知人が「仕事に行ってくる」と言って出て行ったんです。何をしに? と思っていたら、寄り合いだったんですね。で、帰ってきたら「一仕事やってきた」という。何物も生産しているわけではないのに――まあ、集落の方針か何かは決めてきたんだろうけど、これを「仕事」という。あるときは体を悪くして寝込んでいる近所の人の(いまで言えばボランティアですが)お世話してきたのを、「ちょっと仕事に行ってきた」という。これも生産という意味では何かを作っているわけではない。
ところが片方で「稼ぎ」という言葉を使うときは妙にお金の話が出てくる。この違いは何だろうかと気になって、その後細かく聞いていくとだんだん分かってきた。村人が「仕事」という場合、村で暮らしていく以上必ず必要な労働を指します。ですから農作業はもちろん、山の手入れも、道の草刈りや神社の掃除など地域の共同作業も、もちろん家庭内労働も、つまり暮らしや地域を維持していく労働はすべて「仕事」なんです。
これに対し「稼ぎ」は、行わずに済むのなら本当はやりたくない、しかし収入のためにはせざるを得ない労働を指している。
」【出典:『哲学者内山節の世界』81ページ(新評論2014年8月刊「ロングインタビュー よりよく生きるために」)】
「稼ぎ」と「仕事」。またぞろ言葉で恐縮だが、管理人は「稼業」と「渡世」という言葉を使ってきた。当ブログでも2年ほど前「稼業としての映画ではなく、渡世としての映画を」と書いた。【http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20120605/1338849198
個人のあり方だけのことではない。日本の映画全体が、
「稼ぎ」にかまけて「仕事」を忘れている、と、今日はエラソーに言ってみる。
もっとも、「稼ぎ」も「仕事」も両方必要なことは言うまでもない。