2ペンスの希望

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「理で詰める」

記録映画を二本観てきた。
2012年に完成していたが見逃していた一本。評点は△(観ても観なくてもいい。悪くはないのだけれど、感心はしなかった。)
もう一本は出来立てのほやほや。評点は×(観ない方が良かった。)
映画というのは、本当に難しい。
そう思いながら、このところずっと読んでいる佐々木中の言葉を思い浮かべた。
(本当に無意味であるということとか、本当に無目的であるというのは、実に難しいことなんです。)既成の意味や既成の理性、既成の道徳や既成のやり方に当てはまらない、そこから一瞬でも脱して事を行おうというのは、なまなかにできない。実は厳しい「鍛錬」によってしかそこには到達できないのです。
「理で詰める」ということを、はじめからないがしろにしてもらっては困る。おそらく、本当に既成の論理なり理性なり意味なり根拠なり法なりを突き抜けるには、既成のそうしたものを一旦通過し極め詰めていく苦闘が必要になる。そうしたことなしに、一足とびに無意味や無根拠に、善悪の彼岸に到達できるなどとは、夢にも考えないで欲しいのです。
藝術というものは論理で、知で、詰めて詰めて詰めて‥‥詰めて、そこで、一滴だけ滴(したた)る鮮血のようなものが叙情であり、理性の彼方にあるものなので、そこまで詰める度胸も根性もない奴は、‥‥
」(穏当を欠くので伏字。  「レッドカード!」でも、「引っ込んでろ!」とでも、お好きな言葉を補ってどうぞ)
              【「歓び、われわれが居ない世界の」『仝[dou]』所収 より】
それは「上演」され「演出」されなくてはならない。つまり、ある種の人為性を持って精緻に創り上げられ、舞台の上に乗せられ、宣明されなくてはならない。」 【 同上 】
幼稚で無意味な自堕落に溺れるのではなく、「詰めて詰めて詰めて」、練って練って練って、続けて続けて続けて、「あらたな始まりを」刻まなくてはならない。