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「自然体」

時代劇・映画史研究家:春日太一さんの本については何度か書いてきた。
今日は新潮新書『なぜ時代劇は滅びるのか』【新潮新書586 2014年9月 刊】。
研究者春日さんは熱い憤怒の人だった。
時代劇をダメにした“戦犯”を列挙する中、「自然体」しか演じられない役者について、
こう書く。少々長いがお付き合いを。
主題は池波正太郎原作のテレビ時代劇『仕掛人 藤枝梅安』。
「主人公は江戸で鍼医者を営む藤枝梅安。名医として人から慕われるこの男は、裏では金をもらって人を殺す《仕掛人》だった。人助けを生業とする者が、一方で人を殺す。その陰影を抱えた男の二面性を名優たちが魅力的に演じてきた。日常の素朴さと殺しの冷徹さ緒形拳、飄々とした日常と怒りに満ちた殺しの小林桂樹渡辺謙の梅安は日常では爽やかな好青年の顔を見せる一方で殺しになると憂いを帯びる‥‥彼らは皆、完璧なまでに作り込んだ芝居で、非情な世界に生きる男の業を見事に演じきっていた。
が、二〇〇六年版の梅安を演じたKは違った。「自然体で演じたい」と現代的な日常性で演じることを選び、梅安の二面性や非情さを作り込むことを拒否したのだ。その結果はどうだったか。能面のような無表情の男がウロウロしている姿が終始映し出され、どのような感情を抱き、何を考えているか分からない、間抜けな梅安がそこにいただけだった。血湧き肉踊るヒロイックさも、切なくなるドラマチックさも全くなく、観ていて何の感情も動かされなかった。だいたい、何人も人を殺してきているのに「自然体」でいる男に感情移入などできるはずもない。
これはKに限ったことではない。最近の俳優の多くに見られる傾向だ。どうも勘違いしているようだが、時代劇において「自然体」とは「現代人の日常を再現する」ことでも、ましてや「何もしない」ことでもない。
「作り込んだ芝居」を観客に違和感なく受け止めてもらうために技術を尽くした結果得られるもの、それが「自然体」なのだ。かつての名優たちは皆、その苦闘の果てに素晴らしい芝居を時代劇で提示し、観客を興奮・感動させてきた。
何度も書いてきたが、時代劇で最も大切なのは「ウソを本当に見せる技術」である。それを否定し、現代的な日常感の「自然体」で演じてしまえば、設定や衣装などの「ウソ」の部分がかえって際立ち、観る側はシラけるだけだ。
時代劇において「自然体」とはただの手抜きでしかない。」

引用ではイニシャルKとしたが、本では実名表記だ。 春日さんの筆はさらに止まらず、次ページでは、近年の脇役たちの時代劇演技についても名指しで痛罵している。
(こちらももちろん実名。ご興味の向きは本屋で立ち読みあれ。114頁〜117頁)
Kの演技がどうだったかは未見ゆえ知らない。よって問わない。ただ、「自然体」が「何もしない」ことではなく、「作り込まれた」技術の成果(精華)であることには同感する。最も時代劇だけじゃなさそうだが‥。
自分勝手な「熱演」や、ただの手抜きの「自然体」は、願い下げだ。
(いうまでもないが、能面は無表情ではない。微妙な顔の傾け方で豊かに表情を作る)